無常観を力にする文化

このブログは、躍動する無常観の続きのブログです。

日本では、明治維新の時に、文明開化の象徴のように楽器としてバイオリンが流行はじめました。もともと、日本には、胡弓という弦を弓で弾く楽器も存在していましたが、そんなに浸透していたわけでは無かったようです。明治維新と同時にバイオリンがはやるというのは、ちょっと象徴的なことですが、それまでこうした楽器を受け付けてこなかったのは、ひょっとしたら弓で弾く楽器の音が、自然に消えていくことがないからなのかも知れません。明治以前の日本人の感性は、消えて行くものに向かって集中していたと思われるからです。

祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。平家物語の冒頭のこの下り、実は、祇園精舎には鐘は存在していないようです。つまり、もともと存在しないものを捉え、さらにその無いものから、さらに無くなって消えて行く鐘の音に集中したとき、感性が躍動し始めると考えるわけです。ポジティブシンキングに慣れた、現代の人が、理解することが難しいお話です。生命活動は、拡散ではなく、むしろ収縮活動であると以前書きましたが(左を大切に考える文化)集中という事に限った話にすれば、もう少しわかりやすいと思います。

普通の人は、ポジティブに将来の夢を見て、その目標に向かって努力しながら進んで行くわけですが、その結果はどうかといえば、全員が全員、目標に到達することは無いわけです。運が良いとか悪いとか、努力が足りないとか、まあ理由は、あとから何とでも考えられますね。つまり、新しく生まれるもの、発展していくものは、無限の可能性があるわけで、そのことは良いことですが、集中ということを行う行為の対象としては、ブレが大きすぎますし、成長にはエネルギーを消費する効果もありますから、集中には努力が必要になってきます。一方で、消えて行くものの行方は、明らかで、確実であり、しかもブレがないうえに、感性が動き出すという。つまり、消えて行く中にエネルギーも生まれてくるわけで、そのことは、如実に感じ取るとこが出来るわけで、実に楽に集中観を作ることが出来るわけです。

そして、消えて行くものに集中することが、ネガティブであると考える発想は、そもそも西洋思想的であり、生産するためには、破壊しないといけないと考える近代社会の裏付けにもなっているわけです。しかし元来、古事記の中にも見られますように、八百万の神々は、誕生することがまれで、そのほとんどは「なる」神々なのです。伊邪那美命は、火之迦具土神を産んで、それがもとで、身体が弱り黄泉国へ行きますが、その伊邪那美命の身体からは、ハ神が成りませるわけです。つまり、単に消滅するのではなく、消えゆくものは、変容して、新しい働きが生成され生まれ変わる、つまり「ムスビの力」の具体的な発現でもあるわけです。

いつもこのブログで言っていますように、これは哲学的なお話をしたいのでは無く、現実的なテクニカルなお話をしているつもりです。消えゆくのも、無きものへの集中は、たんに消滅を意味するのでは無く、そこからは、さらに新しい変容と生成を生み出す可能性があるという夢の様な話をしているわけです。しかも、ブレることもなく、強く自然に引き込まれていく集中観を作り出すことが可能なわけです。

そして、僕はここで、いままでの自分の間違いに、やっと気がつきました。それは、維持しようとする気持ちです。例えば、演技をするときに、ある集中を作ったら、それをキープしようと考えてしまうことです。幸せでも、なんでも良いものが得られたら、それを今度は、守ろうと維持しようとしてしまうということです。ですから、余計な力が入り、結局、集中は崩れていくし、幸せはただただ、逃げていくわけです。

つまり、どんなに素晴らしいものでも、それを維持しようとすれば、居つきがおきて流れを失うわけです。ですから、良い集中は、消えて行けばいいわけで、その消えて行くものに集中すれば、さらに素晴らしい集中が起きてくるというわけです。次々に流れていく、生まれては消えて行く集中こそが、なるもの、つまり「ムスビの力」、創造する力になって行くのだと思うわけです。

日本人の持つ無常観とは、世を捨てる、悟りの境地のことを言っているのではなく、まさに躍動する現実社会を生き生きと進んで行くための、必須の感覚だと思ったわけです。このことを実践に生かしていけば、とても素晴らしく楽しいものが、出来ていくように感じています。そして、また一つ日本文化の新しい側面が見えてくるというわけです。

 

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