量子力学的な身体観
現代では、精神が身体よりも上位に位置し、身体を生きていくための道具と捉えているからでしょうか?身体を機械のように扱い、性能やスタイルを気にしたり、壊れたら部品を変えたり、捨てたりと、まるでロボットのように感じているかも知れません。ですから、身体活動をせいぜいニュートン力学の範囲で考えているのでは、ないでしょうか?柔道が体重別になったり、刀の持ち方が変わってしまったりと、いずれも合理化の流れの中にニュートン力学を垣間見ることができます。では、量子力学ならどうかといいますと、もちろん、量子力学を本当に理解している人は、どこにもいませんが、笑。なぜか、スピリチュアル系で引用されたりしています。引き寄せの法則だとか、人間の意志がこの世界を作り上げている、なんてことになってしまうわけです。でも、この量子力学的な考えは、面白いので、ちょっと掘り下げてみます。
そこで、有名なのが二重スリットの実験です。わかりやすくて面白いので是非見てください。
僕が思うに、意識が物理の世界に影響を及ぼすとして、それはいいとしても、その結果、粒子の動きの本来の働きを奪って、ニュートン力学的にしか働かなくなってしまったと解釈することも出来るわけです。これが、逆ならとても夢のある話なのです。物資に、人間が働きかければ、量子的に動き始めるのなら、生命の誕生も近いかも知れません。でも、悲しいかな人間の意識は、逆の作用をもたらしているようです。つまり、意識はニュートン力学を越えてないのでは?と思ってしまったりするのですが、いかがでしょうか?ニュートン力学的身体観を持って、自意識を働かせても、想像通りの想定内のつまらない結果しか、もたらさないのかもしれません。
つまり、人間の浅知恵で、おのおのが作りたい世界をイメージしたとこで、どう考えても住みやすい世の中が出来るわけがないので、そんなことが出来ないようにブロックされているのかもしれませんね。笑。本来はここには自他問題が発生し、そのことを考えない限りこの現象を捉えることは、無理ですし、その資格すら、まだ持ち合わせていないと考えるべきでしょう。人の操作願望ほど、第一に忌むべき欲求だと「武士のならひ」では、考えています。
そのようなことよりも、僕が面白いと感じたのは、日本人が昔から常に心がけてきた、無であるとか、無心というキーワードが、暗示していることと、この量子力学の二重スリットの実験がしめす世界が、見事に一致しているということです。私たちが、意識して行動したときの、つまらなさや陳腐さは、まさにニュートン力学的であり、そこには文化の入る隙もないわけです。ところが、一旦、自分の意志ではないものに従い他者と同調を始めたとき、我々は驚くほど変化に富、経験したことのないような感覚を得、文化の力を確かに享受していると実感できるのです。もともと、日本文化は、万物を生命として扱う文化です。このことは、自分の意志によって相手やものを操作するのではなく、意志をあえて伝えないことによって、波のように共鳴や同調して、行動することをしようとしている文化なわけです。
古武道で有名な、新陰流の一刀両段という技は、後の先(ごのせん)で、相手が斬りかけた後から、こちらも斬りにいって、しかも相手よりも、先に剣を到達させるわけです。(新陰流を習ったことはありませんので、あくまでも勝手な憶測です。)普通に考えれば、先に斬りかかった方が、早く相手に剣が到達するはずです。では、どうやって後から動いて、先に到達させるのか?それは、可能性としては、つまり無になることです。相手が意志を持って、斬ってきたらなら、無になって斬り返せば、意志を持った行動よりも早く動けるというわけです。要するに意志を持ったら、ニュートン力学であるのに対して、意志を外せば、量子力学的になり、相手と同調して、波の動きに乗って相手よりも早く動ける可能性があるわけです。この様なことは、日本文化の知恵の中に、山のようにあるわけですが、つまり意志がいかに自然を壊し、可能性を奪うものなのか、この二重スリットの実験がしめしてくれた、面白い例なのかもしれません。
まあ、スピリチュアル系の人たちも、僕の考えも、どちも我田引水で、勝手に自分の都合に合わせて解釈しているわけですが、笑。
みなさんは、どう思われますか?