精神は、身体に触れられない

こう切り出したら、ある人から、いえ、私は、身体にいつでも触ることができますよ、むしろ精神には触れないです。その方が、普通の考え方じゃないですか?と言われました。

はい、とてもごもっともなご意見です。僕の説明不足ですね。ごめんなさい。この触れるとは、つまり、物理的な話ではないのですけど。例えば、身体には、いつでも簡単に触れることができると、言われましたが、その触ったと認識しているのは、脳であり、つまりは精神であります。精神が、身体にさわろうと考えて、行動し触ったと認識しましたが、すべて脳の中で完結された精神活動になるというわけです。

精神は、色々なものを認識という形で、理解をしていきます。この認識という行為が、観念を生み、以後、認識したものは、すべてこの観念のベールに覆われてしまったものを感じたと思っているわけです。ですから、身体を触るにしても、それが、本当に触ったのか、どうなのかは、もういっさい分からないわけです。いや、分からないじゃなくて、絶対、触れていません。私たちは、全て、こうした精神が作り上げた虚構の世界の中で生きているわけです。つまり、理解したら終わりです。

それでも、そんな事、どうでも良いことでしょう!、それで、私たちは、何も困っていませんから。と、興味の無い人や、短気な人は、話を終わらせるでしょう。じゃあ、逆になぜ、「武士のならい」では、このことにこだわるのか?ですね。僕は、この精神と身体の関係を知ることが、唯一、人工知能化された人生から抜け出すためのスタートラインに立つ条件だと感じているし、生きるということに真摯に向き合うための根本原理だと思うからです。精神の奴隷と化した身体を扱っていても、生きるということが、一向に楽しくなったりしません。結局、成果や結果が伴わなければ、楽しくない人生なんて、まさに精神が創り出した虚構の世界を生きているだけという証拠だと思うのです。ただ生きることが、楽しくなかったら、人生のスタートに立てないですよ。まあ、そんな悟りじみたことなんて、無意味だと思うかもしれません。でもね、たぶん、僕が思うには、これが最短コースをたどる方法だと感じています。みんなは、特に、ビジネス系の人や、ポジティブシンキングの方などは、ビジョンに向かって、まっしぐらが、最短コースだと信仰してらっしゃいますが、案外、金網一枚が避けきれないで、もがいていたりする鶏と変わらないこともあるんじゃないですか?

もちろん、僕だって、お金は欲しいし、結果は残したいし、話を聞いてもらえるような立場になりたいですよ。それでも、やはり、これが、生命に向き合うための法則の第一定義ですね。身体は、触れる事も、理解することも、精神がおよばない領域で、脈々と独立して生きているというわけです。

例えば、精神だけに軸において、生きていて、普段やらかしてしまうことは、どんなことかと言いますと。まず、二次元的に捉える。また、二元論になりやすい。0か1の世界ですね。結果重視で、過程が欠落する。感覚情報は、位置情報にすり替えられる。物事を分ける(異化する)。差別する。おおざっぱである。変数ではなく定数にして思考を組み立てる。常に動いているものを捉えられない。記憶をねつ造する。経験に左右される。何かを想定して動く。理解しないと動けない。因果関係に縛られる。

とネガティブキャンペーンみたいなことしてもしょうが無いですね。笑。つまりは、精神が捉えた世界は、雑だし、適当なので、そのままでは、失敗が多いわけです。雑だという表現が、とても気になるかもしれませんね。緻密に計算していると、思っていますものね。どうして、雑かというと、理論的な考えをする上で、捨ててしまうことが多いからです。例えば、生きている事、色々な作用が影響するという考え、時間経過、個性や個別性、などなど、捨てて考えるわけですから、おおざっぱと言えるわけです。

そして、何よりも、全てを合理化してしまうことです。手を上げてくださいと言われて、たぶん誰でも、手を上げますが、じゃあ、いったいどこを起点にどう動かしたの?ということに精神は、案外関知してないですよね?でも、手はあげられましたよと、言うかもしれない。しかし、この上げられてた手は、実は生きていない手なのです。したがって、使い道がない。

だから、無茶苦茶ですけど、強引に話をまとめますとね、こんなに精神が、考えていることが適当で、身体にアクセスすることが、不可能だというのなら、いっそ「無」に集中したほうが、身体が、精神から解放される隙がうまれる、可能性が生まれる。つまり、生きていきますよって、いうか、精神がとらえるものより正確に物事を扱えるかもしれないわけですよ。どうでしょうか?あの、これ、言っときますけど、方便ですからね。とりあえずの、切り口としては、良いかなと思ったわけです。ダメですか?でもね、このことは、みんなが考えている、無とは、たぶんイメージ違うでしょう?無は、結果ではなくて、導入や過程で、使ってみると、分かりやすいのです。

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