守、破、離、について再考する

一般的な解釈は、ネットに山のようにありますので、そちらを参考にしてください。

ここでは、反対ななき調和という観点からの守、破、離について考えたいと思います。
まず、序破急にしてもそうですが、これらの言葉を理論的に捉えようとすると、なぜか時系列で並べてしまいます。ですから、初級が守で、中級が、破で、上級が離だ、みたいな感じですか?中には、学ぶためには、今までの知識を捨てなさい、だから、離が最初だ。という人もいますが、それでも、離の次にくるのは、守で、次が破ですね。笑

序破急もそうですね。時系列にならべて、序が最初で、破、急とつづくとして解釈されています。僕は、これらの言葉を時系列に並べて、解釈したのでは、とてもつまらないものになってしまうと思うのです。ですから、反対ななき調和で書きました、二項対立を脱却するために考えられた、三項なのでは?と読み返してみるわけです。するととても、奥が深く感じられるのです。つまり、守も破も離もすべて、佳いといっていると解釈するわけです。

お茶のしきたりや型を、かたくなに守り通す、それも茶道にとって是であるし、お茶の型を破ってみる試みをするのも、茶道にとって是である、そもそもそんなことどうでもいいやと離するのも、茶道にとって是であるとするわけです。つまり茶道という世界観のなかで、それらは、すべて是であり、それぞれが切磋琢磨することこそ、茶道という世界を発展させるものであるとするわけです。この三項は、お互いに輝くことで、調和をおりなすわけです。これが、反対なき調和だと思うのですが、いかがでしょうか?

このように三項にしてみれば、型は守るべきなのか、破るべきなのかと二項対立で、悩んでいたのが馬鹿みたいに感じられるかもしれません?

ただこの場合の三項を成立させるためには、ただ三項を並べるだけではなく、もうひとつの要素があるのです。そこが重要なのですが、、

これを演劇で説明しますと、例えば、演技を稽古するときに、所作演技などで説明したりしているのですが、役を演じるとき、演出家や先生からは、役になりきりなさいと、無責任に言われたりもしますが、(笑)100%他人になってしまったら、演技の意味がなくなりますね?つまり、自分が残ってないと演技する価値がないのですよ、そうですよね??。つまり、どれだけ自分を残して、どれだけ役の人物になるの?と考えるわけですが、みごとな二項対立をつくりますので、答えは死ぬまでみつかりません。そのことを説明できる先生もいないと思います、たぶん経験をつめばわかるとか言って、話をはぐらかします。それで、大方の人は、たぶん出たとこ勝負で、取り組んでいると思われます。違っていたら、ごめんなさい。爆

ですから、これを解決するために三項をつくるわけですが、これが、芸と演技の違いだと、渡辺保さんの著書「身体は幻」の中に書かれております。抜粋しておりますので、お時間のあるかた、興味のあるかたはこちらへ

二項の時は、ブレーキとアクセルで、調整をするわけですが、三項になれば、三項全てがフルスロットルでもいいわけです。これは、素晴らしい発見です。そして、それを可能にするための、重要な要素というのは、利休が「本」といっているもの。その「本」というものが、その性質として、集約や統合を目指すのではなく、拡散や根拠なき調和を目指している時に成立するということです。三項あっても、統合を目指すなら、対立するだけなのです。中国、ロシア、アメリカみたいなかんじ?その三カ国の中心に「本」なるものがあり、しかもその「本」が拡散を目指すなら、平和になるわけです?ちょっと例えが悪すぎますね。笑

このことが、日本人が集中といったときに、集約的集中ではなく、拡散的集中をとる理由です。目の前の相手に礼をするのではなく、場に礼をする。それは、戦争や対立をして、統合をはかり一つになろうとしているのではなく、おのおのの立場を尊重し、反対なき調和、根拠なき調和を目指しいるからなのです。そのための、重要な要素として、空間を大切にし、「間」を生み出し活用する。こう解釈をしたとき、守破離の世界観は、とても広がりをもって、日々の生活の参考になると思うのですが、いかがでしょうか?

最後まで、お付き合いいただきまして、ありがとうございました

 

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