拡散に向かう着物とは?何?

前回のブログで、守破離とは、三項対立のことで、それを成立させるためには、その核になるものが、統合にむかうのではなく、拡散的である必要があると、書きました。

伝ふプロジェクトでは、着物屋さんを始めましたので、着物についての守破離を考えてみようと思ったわけです。

守:伝統を重んじて、厳しくそれを守る。着物警察になるようなかたがたです。
破:約束事を守らない、振袖を短く着てしまうとか、洋服の上から着物をきるとか、
離:これはもう、着物と言えるのか?疑問に思えるようなものたち

そして、核としての着物をどう捉えるかですよね。
つまり、集中的な核であれば、守破離は、敵対し
拡散的であれば、共存共栄するだろうというわけです。

では、何が集中的であり、何が拡散的であるのか?

そう考えますと、やはり、集中的なものというのは、実際にそこにあるもの、つまり実在する着物そのものや、帯、草履、羽織などであり、いわゆる「もの」といわれているもの。それに対して、拡散的なものというのは、実体の無いものたち、根拠をしめすことが難しいもの、つまり「こと」ということになるのでは、ないでしょうか?

じゃあ、着物における「こと」とは、どんなことがあるのか?考えてみます。
・着物と身体のあいだに生じる、空間を感じること 「間」
・帯をしめることによる垂直感覚 「身体感覚」
・ねじることが難しくなることから、背骨で動くようになる 「中心感覚」
・袖が、あることによる、腕の動かし、脇の空間の確保。 「二の腕の扱い」

とりあえず思いついたのが、この4つ、全てを核にするには、難しいと思うので、どれかひとつに絞ってみるといいのかもしれない。

二番目の帯に関しては、賛否両論があると思います。僕としては、帯の重要性をとても訴えたいところですが、「破」や「離」のひとたちが、真っ先に取り組んで、無くそうとするのも帯ですよね。帯は無くても、感覚は残るんだとか、言うと、話がややこしくなるので、ここでは、やめておきます。なので、「身体感覚」は除外します。
僕が、専門学校の講師としていくときに、着物を着ていくのは、まさにこの帯の重要性を伝えたいためですが、、(余談)

三番目の「ねじらない」も、着物を着て、日舞ではなくダンスとして動いたり、よさこい祭りの踊りなどや、殺陣の見せ方を現代風にすれば、かならず「ねじる」ということを可能にできるように着物を工夫してくると思います。ですから、この「中心感覚」も除外ですね。

最初の「間」は、行けそうな気がするのですが、洋服に着物を組み合わせたとき、この「間」は、消滅してしまうのかもしれない。もちろん、このとき洋服と着物のあいだにも「間」は生じるのですが、そこを意識して、コーディネートするということは、無いのかもしれない。ですから、現時点では、これも除外しておきます。

それで、残るのが、袖ですね。普通に着物らしさを考えると、胸のあわせもあるのかなと思うのですが、それも二番目の「身体感覚」に組み込まれるような気がします。外国の人が、着物をガウンとして着用することもありますが、そうなんです。ガウンと同じになるなら、そこは、文化らしくないのかもしれないですしね。

袖という「腕の動き」は、相撲でも重要ですし、武術でも要、茶道は、まさに腕の動きそのものだし、日舞にしてもそうですし、スポーツとは一線を隔する文化的なものですよね。逆に洋服から、着物に歩み寄るときに、袖をつけただけで、着物風になるものです。洋服にはない、着物としてのステータスのひとつが、袖なのかもしれませんね。

ちょっと、消去法で、なさけないのですが、現時点(令和二年三月、)僕のなかでは、着物の核にすえるのは、「袖」つまり、腕の扱い。着物文化の核は、二の腕の扱いであり、これを核に据えれば、守破離は、成立し、新しい文化を作り出せるのかもしれないと、机上の空論と言われるかもしれませんが、試してみたいと思うのであります。

着物は、袖の文化であり、そして、腕の扱いが、文化的な「こと」となるわけです。
腕の所作こそが、着物における守破離を成立させ、発展させることが出来るものとして、研究します!!

という、強引なまとめになりました。笑

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