左を大切に考える文化

神社に行きますと、鳥居をくぐったあと、手水がありまして、禊ぎを簡略化して手を清めます。このとき、左手から洗うわけです。では、なぜ左手から洗うのか?という事ですが、当然諸説あるわけですが、ひだりとは、火だりで、みぎは、水ぎりと読めば、火水で「かみ」となるには左が上ですね。左目を洗って、天照大神が成り、右目からは月読命が成る。月といえば水に映る姿をよく語られ、一緒に考えられるとすれば、納得できるかもしれない。ただこういった解釈は、後付けでいくらでも考えられるので、一生懸命考えても、あまり意味が無いことかもしれません。ただ、間違いなく、左を大切にしてきた文化があるわけですから、そこには必ず、身体感覚につながる何かがあったはずです。つまり、左という身体感覚が、日本人にとってとても大切だったわけです。

私たちは、普段あまり深く考えずに、神社で左手から、洗うわけですが、実はこの、左が大切と考える文化は、世界的にはとても珍しいことなのです。日本では、左大臣のが右大臣より上ですが、お隣の中国では、右大臣のが上です。なぜ、中国から入ってきた制度(概念)を変えたの?不思議です。そして、ほとんどの国が、右が正しいと言ってます。That’s right.なのに、日本だけが、左が正しいと言うのです。「左様でございます」これには、おったまげですね。同じように、世界と違う価値観に引く文化がありますが(これもではじまる言葉ですね)、のこぎりを引いて切るのは日本だけで、中国から入ってきたものをわざわざ、作り直したわけです。この事は、また別の機会に書きますが、経済効果しか考えない現代ならば、この様な仕様の変更は、あり得ない話なのかもしれません。

殺陣をしていて、たまに聞かれることに、刀は左に差しますが、それは右利きだからで、左利きの人は、右に差したのですか?という質問です。基本的には、左利きの人でも左に差します。この点において、こうした事を、右利き社会だから、左利きの人は強制的に直させられたんだと解釈すると、論点を見失います。また、左利きの人間が、刀を左に差すのは、合理的でないと考える合理主義を持ち出してくるのも違うと思います。それでも納得できないという人がいるのなら、聞きますが、左利きの人の心臓は、右にありますか?あるというのなら、ひょっとしたら右に差したほうのが良いかもしれません。というぐらい(例え話ですよ)、この問題は、利き腕とは関係のない話なのだと思います。そもそも、利き腕って自我が作り出した幻想かもしれませんよね?(ここは深く突っ込まないでください)

日本文化は身体感覚にもとづいて築き上げられたというのが、このサイトのテーマですから、精神活動かもしれない、利き腕問題を理由に、刀を左に差したのではなく、左という身体感覚を利用するために、左に差したと考えるのが自然なわけです。と勝手にまとめる。

では、どのような身体感覚を使おうとしているのかですが、それは、各自が自問自答すれば良いわけです。と言ったら、あまりにも投げやりなブログになってしまうので、ここで、ひとつの可能性を書くことにします。

日本文化には、いろいろなキーワードがあるのですが、例えば、侘び、寂び、沈み、縮み、欠け、鈍り、などなどと、ポジティブな人達が嫌いな単語が並びます。ごめんなさい。この中で、活動するときに一番関わってくるのが、やはり縮みという感覚かなと思うのですが、どうでしょうか?

神社に参拝するときに、身体を小さくして、失礼の無いようにすると言ってしまえば、とても殊勝な考えですが、それとは別に、実は縮むとは、生命活動そのものの象徴であるかもしれないのです。みなさんは、ポジティブに拡大や拡張という言葉に共感を覚えるかもしれません。宇宙は膨張しているとか、熱力学でエントロピー(乱雑さ)は拡大するとか、つまり拡大や拡散こそが自然な流れだと言うわけですが、実はこれは単に物質世界の中での話でして、生命の体内の中ではエントロピーは拡大しないのです。それを捉えて時間が逆に流れてるのでは?ともいわれています。簡単に言ってしまうと、うんこうんことして、収縮していてくれないと、水の中に落としたインクの様に、体内の中で拡散とかされたら困るという話です。つまり、生命活動とは、拡散ではなく集中することに意味があるわけです。ですから、例えば左の収縮機能が衰えれば、心臓肥大とか、胃拡張といったわかりやすい左側の病気もあります。

話がそれましたが、つまり左の身体感覚とは、収縮感覚である可能性があり、エネルギー体としての人間が集約されるべき感覚の源なのかもしれないということです。エネルギー体としての人間は、大気中に拡散することなく、体をなしてとどまる必要があるというわけです。日()というエネルギーが左(だり)によってあつまり、人(足る)となるための、感覚経験として左を大切にしてきたのかもしれないという。なんとも、誰も信じなさそうなファンタジーな話になってしまいましたとさ。しかしながら、そうやって、身体に起きる感覚に集中してみるということを、忘れてしまった現代の私たちは、もう一度、こうした感覚経験をひとつひとつ大切にしていかないと、すべてをコンピューターに取って変わられて支配されてしまい、人間性を見失ってしまう事になるでしょう。日本文化とは、まさにこのコンピューターとの戦いのために用意されていた文化なのかもしれない。笑

 

 

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