感性を豊かにするための身体作り
覚書
まず、これから、おこなうワークショップが、
何の役にも立たないということを知っていて欲しい。
ですから、普通に考えて、どんなところに企画書を持って行っても絶対に通りませんので、自前で行うわけです。笑
役に立たないことを何故する必要性があるのか?と思うかもしれませんが、そもそも、文化というのは、なんの役にたたないことに、みんなで集中して、なぜか楽しいから、いつのまにか夢中になってしまう。そして、みんながそのことを共有しはじめる。ということが、文化の原点にあると思うのです。
役に立つことをすると、利益を追求しはじめますので、そんなやましい場に文化は、けっして根をおろさないわけです。
といいますか、純粋に、集中すること、それも身体に集中すること、そのことが感性を豊かにする一番の早道だと思うわけです。この「感性を豊かに」が、このワークショップのテーマになります。
これが、人生に真摯に向き合うことになるのです。(意味不明でいいですよ)笑
身体に集中すること、と簡単に書きましたが、実はここが一番難解なところなのです。私たちは、普段、身体と言ったとき、ああ、これでしょと簡単に示すことができると思うわけです。
しかし、それは、脳が勝手に、身体を理解しやすいように、ねつ造しているとしたら?と考えてみるわけです。
そう仮定してみれば、もう、哲学というか、禅問答のように大変です。私たちは、身体に触れようとしても、その前に身体観が、立ち塞がって、本当の身体に接することができないのです。
いや、実はこれは仮定の話ではなく、実際の話なのです。ですから、私たちが身体と思っているのは、単に身体に対する観念であって、実際の身体は、ベールに覆われているわけです。つまり、私たちにとって身体とは、決して見ることも触れることができない領域にあって、まったくの未知の世界のお話なのです。ただ、手がかりとして、無意識や無自覚の世界に集中してみるわけです。そして、唯一、文化を通してだけ、精神と身体の接点が、形成されることがあるのかもしれません。その奇跡にかけることを「道」といい、先人たちが、追求してきたのです。つまり、「道」とは「未知」の世界のことに挑むことです。??
エビデンスを求める現代人は、既知のものに既知を積み上げていって、未知に対処しようとしますが、それは、もちろん、そこで得られる理解は、かなり大雑把なもので、言ってみれば、また嘘が増えたということ。そして、間違った身体観念を次々に上塗りするわけです。
そりゃ、科学は、本当にすごいものかもしれませんが、既知が崩れて、未知のものだらけになると、途端にだめですね。爆発した、原子炉に対して、バケツに水くんでかけるとか、ワクチンのない病気が出たら、家にとじこもっていましょうなんて、ちょっと、笑ってしまうほど、稚拙な対処方法しか、発想できなくなるわけです。まあ、これは余談です。ごめんなさい。
話をもどして、
そこで、このワークショップは、なんの役にも立たないと思っていただければ、精神活動が、くだらないと判断して、少しの間、休んでいてくれます。そうすると、無意識や無自覚の世界に入りやすいでしょう?そうすれば、身体観念に隙間に割って入れる可能性がでてくるわけです。精神がこれは、役に立つなと思った瞬間に、起き上がって、悪巧みを始めますからね。笑
あと、私たちが精神で作り上げた身体像ですが、たぶん静止していると思います。これは、科学的思考の避けられない宿命ですね。どういうことかと、言いますと、例えば
1+1=2
この答えを信仰するためには、1という数字が変化しないことが求められるわけです。この信仰のおかげで、論理的な思考方法が可能になります。ですから、身体といったときも、その身体は普遍的で、変化しないことが求められるわけです。つまり安静時の身体のことです。この発想が元になって、身体を考えますと、とりあえず死んでも、そこに残るものが身体だと思っている節があります。ですから、身体は生きていくための機械で、そこに魂なり、生命が注入されてはじめて人間になるってね。
これを身体だと捉えてしまうと、操作願望が強くなりますし、意思がない限り動かないものとして、捉えてしまって、残念な結果になってしまいます。笑
身体は、むしろ無意識無自覚の世界で、縦横無尽に動き回っているものとすると、とたんに夢が広がっていきます。
たえず、自由に動き回っているもの、気、息、水、脈、力、が、実は身体の実態であって、それが捉えきれない精神が、肉、骨、皮膚、内臓、などを身体だと認識したのかもしれない。
こうした観点から、身体を捉えていきますと、それは、無意識と無自覚の世界への挑戦になっていくわけです。
この考え方は、なかなかにわかに信じられないと思います。でも、冷静に明治維新以前の日本文化を調べれば、そういうことが読み取れますし、ワークショップに参加していただいて、実際に体験してみれば、なるほど、と感じてもらえるかもしれません。もちろん、僕が洗脳しているからだと、ののしる人もいますが、笑。そういう人は、学校教育に洗脳されたとは、絶対に思わないので、しょうが無いですが、ご縁がなかったんですね、ということですね。