矛盾の生命性
私たちが普段考える、思考法の理論の中に生命性が存在していない。なぜなら、生命性を排除することによって、理論やら定義やらを簡素化して、思考することを可能にしてきたからです。
これが、近代という社会の発展のからくりだと思うのです。1760年頃、イギリスで始まった産業革命が、近代思考の始まりではないでしょうか?それと、平行して唯物論が、完全に正当化、標準化され、主導権を握ります。
そして、現在に至り私たちは、この唯物論に偏った思考法のお陰で、逆に生命というものを考えることが、非常に困難な事になりました。なぜなら、生命は、唯物論から見れば、矛盾だらけで、理論が成立していないことが多いからだと思われます。しかも、ここ数年の価値観においては、明確で簡素であることが、良いとされているお陰で、こうした「思考すること」すら、簡素化されて、AIに任せておけば、良いわけで、何も考えないことが幸せなのでしょう。
ですから、次の引用は、かなり難解でありますが、これは唯物論がそう難解にさせているのかもしれません。西田幾多郎氏の実在論の哲学は、「存在」と「実在」は違う、その違いは生命性(本の中では、時間と場所の結合点と言っています)だというわけなんだと思います。「西田幾多郎の実在論」池田善昭著より
我々の身体に於いて、外に出ることは内に入ることであり、内に入ることは外に出ることである、真に自己自身に入ることは、自己が自己を失うことである。我々の身体はいつも内へ外へとの両方向を有つ、矛盾的自己同一的存在である。我々の自己は、空間と時間との矛盾的自己同一的結合点であるのである。世界の創造に繋がると云ふことができる。
産業革命から、260年あまりが過ぎ、便利にはなったが、豊かさをどこかに忘れてきたのかもしれない。経済は、世界的に見ても、行き詰まっているのかもしれない。それでも、日本は平和だと言うのかもしれません。しかし、戦争国と変わらない死者を、自殺者という形でだしているわけで、心の中は戦争状態と言っても過言ではないのかもしれません。これは、明治以降、日本文化を率先して遺棄してきた効果だと思われます。話題がそれました。
本題に戻りました。
私たちは、生命性を普段確認することが出来ません。他者か己の死に直面して、やっと生命を感じるような始末です。それでも、生命性は、決して忘れてはならないものだと思うのです。では、どうしたら良いのでしょうか?
そこで、強引だと思われるかもしれませんが、西田幾多郎さんの言うように、人が、存在ではなく実在するためには、矛盾的自己同一的結合点である必要があるとのだとするならば、とりあえず、自分の中に矛盾を見つけ出し、そこに集中してみれば良いのでは、ないでしょうか??
私たちは、習慣で、矛盾はよくないものであり、解決すべきものであると思い込んでいます。しかし、その矛盾を解消して解決に至ったとしても、実は、それは生命性を喪失しただけのことであるかもしれないというわけです。むしろ、矛盾は矛盾のまま、同一的存在にさせることこそが、生命性の本質になるのかもしれないわけです。
これ、面白いと思いませんか!!
例えば、よく手入れの行き届いた庭みて、私たちは、自然は素晴らしい!と思ったりするわけです。しかし、ほったらかしの雑木林を見ても、自然だとは、あまり思わないわけですよね。でも、理論上は、雑木林のが自然に近いわけです。では、どうして綺麗に手入れされた庭をみて自然を感じるのでしょうか?
つまり、こうした庭が、矛盾的同一的存在に近いからでは、ないでしょうか?人工と自然物、枯山水(水がないという矛盾)。こうした矛盾に生命性を感じ、その生命性を自然だと思う心が、日本人にあるのかもしれません。こうした日本文化のからくりを考えれば、とても創造力が駆り立てられて、ヒントが浮かんでくる。そう思いませんか!!
古池や 蛙飛び込む 水の音 芭蕉
古池とかわずも矛盾し、古池と水の音も矛盾的同一的存在であるとするならば、私たちは、これを自然だと思う。そして、こころの琴線に触れるという仕掛け??
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