一つの意志は、多くの想定外を作る?
ピダハンという本の中にこの様な一節があります
狭い沼のそばを通るジャングルの細い道で、わたしは大きな声でカイオアーに話しかけながら、懐中電灯の光を頼りに進んでいた。カイオアーはわたしのすぐ後ろにいて、懐中電灯など持っていない。カイオアーが突然わたしのおしゃべりを遮り、低い声で言った。「前のほうにカイマンがいるぞ、見てみろ」
わたしは道の前をライトで照らしたが、何も見えなかった。「手に持っているその稲光みたいなやつを消せよ」カイオアーが言った。「暗くしてみるんだ」わたしは指示に従った。今度はほんとうにまったく何も見えなかった。
わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界をみる。 けれどももし、文化にひきずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることなる
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私たちが、普段何気なく使っている意思というものは、まさにこの懐中電灯に、例えられるのかもしれません。あらゆる可能性のある、全方向の中から、意志という懐中電灯は、ある一カ所だけしか照らしだすことができません。何かしようと、思った瞬間に、ある想定がなされ、そこにひとつの方向性が生まれるわけです。つまり、意志を持ったときには、ある想定が定められ、それ以外はすべて、想定外になるというわけです。
あれ?おかしいじゃないか?私たちは、普段、普通に意志を使って生活をしているのに、何の不都合も起きていないよ!と、思うでしょうね。でも、それは、ひょっとしたら、想定内ですすんでいることしか、意識され記憶していないのかもしれませんよ。例えば、対人関係は?と考えてみれば、たぶん、自分のまわりに想定外な人は、一人ぐらいはいたでしょう?
これが、武道なら?想定外が、たくさんあれば勝負が難しくなるのは、小学生にでもわかることです。例えば野球でも、次の球はストレートだと、想定して、その球を打とうとしたのに、カーブがくれば、対処できません。いわゆる、山を張るってやつですね。しかも、その球の想定は、自分の過去の経験からの記憶という引き出しの中にあるものしかないはずです。そう考えると、かなり、無理があるのが分かると思います。ですから、昔の日本人は、生活の中でこの意志の扱いをいろいろ工夫していたようです。
ところが現代では、意志はとても万能な実行力を持っていると解釈されています。意志をしっかり持って、目標を据えて、想定外な事が起きれば、その都度、それに対処して進んでいくことが、正しい道筋だ!というのが、正論になっていると思います。明確な可視化された目標と、合理化された行動で邁進する。そういった価値観が、もう根付いているのかもしれません、ここまできますと、もう感性の問題というか、人それぞれの価値観の問題ですから、なかなか変わりようがないものだと思うのです。ですから、これ以上の説明は、無意味なのかもしれませんが、そうじゃないマイノリティのひとが、こうした社会的風潮の価値観に合わせろと強要されてるケースがあるとしたら、ちょっと、可哀想ですね。笑
ただ、こうした自分の人生観は、冷静に考えていたら絶対に置き換えられなかったのに、自分が一生懸命やって、例えば武道で負けたり、芝居で上手くいかなかったときに、または逆に、自分が自分でないような、素晴らしい体験をしたときに、「あれ?」って思って、その瞬間に、何かがかわることがある可能性が、あるんです。そうしたときに、自分の意志はどう扱われていたんだろうって、思いつくことがあれば、そこから、学び取ったものは、もっと根本的な人生の価値観を揺るがすものかもしれないわけです。
ですから、あるこうしたひとつの「あれ?」の技術の継承は、あるひとつ価値観の継承にもなっていったわけです。だから日本では、ほんとうのところ道徳はいらないし、哲学も必要なかったのかもしれません。ちょっと飛ばしすぎですね、これらは暴言ですから、気になさらないでください。ごめんなさい。
少なくとも、明確な意志を持つことが、どれだけ不利な事なのか、きっと武道は教えてくれていると思います。また、こうした勝負の世界のちょっと昔の日本人の残した言葉と、現代の人が信じて、実際に流行している言葉が、とても乖離していることには、いつも驚かされています。もちろん、いろいろな方面において突き詰めてまで、やったことがないので、はっきりとは分かりませんが、、。