見えないものを見る

一物、前に現るれば、見聞に随いて、意すでに生じ、気すでに動く。もしこれに執着すれば即ち、神霊たちまち昏晦し、浮雲大虚を覆うが如く、最初の天真の妙心を失却して、散乱鹿動の妄意に転倒せん。これ則ち、合気の為す所なり。平日の修行工夫は、合気に離るる一法に有るのみ。
小出切一雲「天真濁露」(↓の本より抜粋)

普通の人は、五感を鍛えることは良いことだと考えていると思います。五感を研ぎ澄ますと言いますが、その結果、何が見えるかと言えば、目の前に現れたものです。しかも五感を駆使すれば、認識感覚が優先されて同調感覚が、無くなります。動体視力が良ければ、勝てると考えるのは現代人で、昔の達人はそうは思わなかった。なぜなら、この場合見えたものは、すべて過去のものだからです。過去に対して戦いを挑んでも勝てません、しかも、そのことにとらわれれば、本質も見えなくなると解釈します。現象が起きてから、対処しても間に合わないわけです。では、どうするのか?つまりは、未然のものを察知することです。それには、外に向ける五感、つまり認識感覚は、邪魔になるわけです。その代わりに、内なる感覚を優先させる、同調感覚に近いものですね、これを使えば、現象がおきる前にアクセスが出来ると考えるわけです。ですから、普段の稽古は、先発した相手の気に乗らないこと、まずは五感を外に向けない、特に視覚に関しては、細心の注意が必要になるというわけです。

一念、わづかに生じれば、則ち万物の後にして、その象、方なり。転じ難く変じ難く、化し難し。一念を起こさざる時の気は、則ち万物の先にして、その象円満。神変の妙用は尽く心に備わり、能く物に応ずべし。
小出切一雲「天真濁露」(↓の本より抜粋)

ほんの少しでも、外界のものを識別感覚すれば、もう自由に動けないとまで、言っているわけですね。一念の前に気を動かせというわけです。つまりは、無自覚の世界を使う訳です。

日光東照宮で、去年あたり話題になりました。眠り猫ですが、目を開けてるのか閉じているのか、話題になりました。この彫刻のもとは、牡丹花下眠猫児(ぼたんかかすいびょうじ)から、来ていると言われていますが、禅問答では、この猫は、寝ているのか寝たふりをしているのか?という事が問題らしいです。この裏に雀が掘られていることから、それだけ平和だという解釈もあります。ネットで調べて見てください。そして、以外と出てこないのが、新陰流の始祖でもあります上泉伊勢守のこの言葉です。

牡丹、花下の睡猫児。学ぶ者、この句を透得して識るべし。若し又、向上の人来らば、更に不伝の妙を施さん。
上泉伊勢守「陰目録」(↓の本より抜粋)

美しい牡丹の下に一匹の猫の児が、心静かに眠っている。ここに、剣術の奥秘がある。この句の意味や、意味する境地を俗界から離れて理解しろと言っています。もし分かったら、もっと不思議な術を授けてあげましょうって事です。これ分かりますか??笑

いつ落ち来るかもわからない牡丹の下で猫が眠っている、しかし、この猫は牡丹が落ちてくる時には、避けるわけですが、落ちて来る瞬間を見たわけでも、危険を察知したわけでもない、つまりこの猫が動いたから牡丹が落ちてくるわけです。(僕の浅知恵解釈ですよ!)。こうしたまとめはしてはいけないのですが、僕は達人ではないので言ってしまうと、この自然界は根拠のない調和で成り立っている。私たちは、この身体を自然と同調していくには、こうした無自覚の境地を作れといっているのでは無いでしょうか?日光の東照宮でも、この眠り猫の解説として、「絶妙の奥義を極めている」と書かれた札が立っているようです。

見えるものに捕らわれず、心にも捕らわれず、つまりそれらの何者でもないものを、「陰」という言葉に託して技術にしようとしてきたのが、陰流や新陰流では、ないでしょうか?

勝に進む所の一心を指して陰といい、剣を揮う身体四肢の動作を陽とす。しかして敵に未だ動作に現わさず、ただ心の内に思い定めしその刹那、あたかも水が月の影を移すの速やかるが如く、直ちに我が心を敵の心、すなわち影をうつして、これに対して勝ちを制するの義。
剣道の発達

ここまで書いて、これらは武術のことだから、関係ないと、お考えの方も多いかも知れませんが、僕が武術のお話を引用するのは、それだけ文献が残っているからだけの話で、元来、所作はすべての行動の規範になるわけですから、人生の規範にもなると考えています。そして

兵法は平法なり 飯篠長威斎家直

となるわけです。つまり、これらの極意は、即、平和のための極意であるわけです。目の前のものに捕らわれて、可視化と合理化をすすめて、競争社会をつくり、生まれた瞬間からその競争にさらされいく子供達、その先にあるのは、平和では無くあらそいと戦争だけです。戦い続けて、自分だけが幸になれば、それで良い、自分の思い通りになれば、弱者のことはどうでも良い。それらの思想は、取りも直さず、見えるものだけを信じて、経済だけを頼りにして、それを正義だと信じ込ませている教育と社会風潮があるからでしょう。ありのままで、良いってことですね。

しかし、牡丹花下眠猫児この絶妙の奥義がわかれば、すなわち平和な世の中が必ず来る。もう道徳なんて必要ない。

これは、かなり極論っぽいと思われるかも知れませんが、とにかく、見るという行為にとても、注意を払っていたことは、間違いないですね。天真正伝香取神道流では、水月見様(見る方法)のこと、また北斗の目付という見ることに関する秘伝が、有るようです。音無きを聞き、姿無きを観る。つまりは、自分の目を閉じて、心眼を開くということですね。あ~難しいですね。でも、面白いって思った方は、この先、見ることに関することは、演技のヒントに書いていく予定ですので、よろしくお願いいたします。

 

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