対語と二項対立
私たちは、語学の勉強するとき、単語を対語で覚えたりします。例えば、高いの反対が、低い。細いの反対が太いといった具合です。単語を単に記憶するという場合なら、それはとても有効で、合理的な手段なのでしょうけど、その反面、一旦、そうやって、対語で覚えてしまうと、身体の感性が歪められて記憶してしまう可能性があるというお話です。
言葉を、何かを伝えるための単純に伝達ツールだと考えれば、たぶん問題は無いと思いますが、言語の起源を考えれば、発せられた言葉は、間違いなく身体のどこかと共鳴して発せられていたわけです。特に日本文化においては、心に響くことよりも、身体に響くことが、文化のベースになっておりますので、言語と身体は密接な関係にあると思われるわけです。ですから、言葉を対語で、無理矢理記憶した場合、身体の同じ箇所に響くようになってしまう可能性があるわけです。
例えば、好きの反対は嫌いです。と短絡的に覚えた場合。(本当のところ好きの反対は、嫌いではないと思うのですが、)このような安直な関連付けのために、好きも嫌いも同じ身体が反応する、つまり同じ集中観になってしまう可能性があるわけです。まだ、嫌い嫌いも好きのうちなんて、言うぐらいだから、許せるところもありますが、笑。
得意と苦手は、どうでしょうか?これは、厳しいです。苦手をなんとか克服して、頑張ろうと思っていても、得意と苦手が、同じ箇所で、同じ集中観だとしたら、解決策を見出すことが難しくなるのは、容易に想像がつきますね。
いくら自己啓発的に、言葉をポジティブに言い換えて頑張ってみたとしても、それに呼応して共鳴する身体が同じ箇所だとしたら、あまり変化しないというのが、現実ではないでしょうか?
音楽で聞いた話ですが、フォルテをどんなに弱くしていってもピアニッシモにはならないそうです。つまり、それは感覚経験として違う次元の感性だからだそうです。そうだとしたら、例えば、得意と苦手は、感性が違うわけで、次元が異なる話なのかもしれません。その両者は交差するポイントが無いのに、そのポイントの切り替えを努力という力で、なんとかなると考えていたとしたら、不毛に終わる可能性がありますよね。お金持ちと貧乏も、ただお金があるかないかの話ではないとしたら?お金が無くても、金持ちは金持ちで、お金を持っていても、貧乏は貧乏なのかもしれないということです。ごめんなさい。例えが、悪すぎる!
日本人の知恵として、二項対立を嫌う理由は、ここにあるのかもしれません。二項対立とは、同じ直線上の両側に違う価値観を置き、対立させて考えることです。戦争と平和とか、自由と道徳とか、緊張とリラックスとか、こうして対立させて考えますと、どうしても解決策は見つからず、結局のところバランスを考えてなんて、その時の流行に従うだけになってしまいます。
これらのことは言葉の理論上の上では、まったくその通りで、問題はないと思うのですが、このままの認識で、身体を動かしますと、ブレーキとアクセルを同じ軸の上で、同時に踏みながら生活するようなわけで、ストレスがたまる原因になるかもしれませんね。
ですから、私たちは、知っている単語を対語にしたり、安易な二項対立にしていないか、身体に聞いてみて、確認作業をする必要があるわけです。そして、しっかりと別のものとして、言語に呼応する身体を作っていけば、身体感覚によって分けられた、感性が違う次元のものになり、二項対立であったものが、なぜかともに協力しあえる間柄に変化を遂げ、全力で生きていけるわけです。
これが、身体言語の一つの要素であり、また日本語の力でもあるのではないかと思っています。
緊張とリラックスは、相反するものではなく、ともに力を携えていく間柄のものなのです。
干渉なんかされたくないと、言えば、つまりそれは、他人に干渉しているわけです。
二項対立で考えると、結局めんどくさいになってしまうでしょう?
精神活動は、個であることを守り、身体は、他者を求め、生命は死を望む