きびすをかえす

きびすをかえすといえば、引き返すという意味ですが、現在では、使われなくなった言葉ですね。きびすとは、踵のことですが、そもそも、私たちは、今、方向転換するときに踵から動く習慣が無くなってきたというのも、この言葉が使われなくなった理由かもしれませんね。いつの間にか、私たちはつま先から動くようになってしまいました。これは、間違いなく学校教育において、西洋的運動を中心に学んできたおかげですね。また、女性の場合は、踵のある靴を履くことが多いですから、ますます習慣として、つま先が重要視されるようになりました。

でもこの事が、問題なのです。と言うにはあまりにも、現状では、とても難しい話になりました。もうすでに、みんなの価値観の方向性が西洋の考え方が正しいというスタンスですし。例えば女性から、ヒールのある靴で歩いた方が、格好いいでしょう!と言われれば、何も言い返す言葉はありません。つまり、今の社会では、踵をつけて歩くのは、かっこ悪いわけです。しかも、つま先立ちは健康に良いという科学的解釈まで、存在していますから、もう議論の余地すらない感じですね。

それでも、あえて踵は重要だと主張を試みるのは、明治以前は、日本人はそうしていたわけですから、そちらの言い分も、知っておいた方が、良いと思うからです。それで、つま先立ちが格好いいと思う現代の人に対して、踵をつけて歩く明治以前の人は、これが自然であるとし、機能的に有利だと思っていたからです。つまりこの選択のポイントは、流行を追うのか?自然さを追うのか?ということですかね。笑

ちょっと待ってください、つま先立ちは科学的にも健康に良いということが立証されているんですよ?それで、なぜ踵をつけることが自然なのですか?と思うかもしれない。しかしですね、この科学という(日本人は、科学を信仰している人が多いですが。。)学問について、知っておいたほうが良いことがあります。それは、科学とは、実験により実証され再現性があることが求められている学問のことです。そこで、人体科学ですが、人体実験をすることは、なかなか難しいので、科学にならないわけです。ですから、しょうが無いので、動物実験をするわけです、そこで、この場合、大前提として、動物と人間は、おなじ構造であるということが、暗黙の中で定義がなされるわけです。つまり、科学は人間における動物性の追求をしていると言っても過言ではないかもしれないわけです。しかも、いいですか?それで、動物の中でつま先立ちで、歩いていない動物は、いません!こうした大前提の中で、つま先立ちが科学的には健康に良いという科学的根拠は、どんな価値を持つのか、僕には分かりません。逆に言いますと、踵をつけて歩くことを許された動物は、人間だけなのです。ですから、人間らしさとは、まさに踵をつけて歩くことかもしれないのです。これでも、踵をつけて歩くことは自然じゃないと思いますか?科学的に健康に良いとは、つまり動物的であるということです。

これは、不思議な事ですが、精神性を重んじている西洋において、身体といえば動物性を追求しています。つま先立ちで歩き、ワルツを踊るバレエは、まさに馬を目指しているわけですし、身体を鍛え、野性的であることがかっこいいと思われています。つまり、科学の中でいう自然さとは、動物的であることを指しているわけです。そして、一方で日本の文化はといいますと、動物性を避け、人間にしかできないことを追求した様に思われます。決して科学に踏み込むことができない領域こそが、人間らしさであると判断されるわけです。舞踏といえば、地面を踏む行為が含まれますし、もちろん、それは踵で踏むことです。相撲の四股を踏むのも踵がつきます。お祭りでも、だいたい踵はつけて踊ります。と、まあここまで書いても、それは、昔の事だから、現代には当てはまりませんと簡単に切り捨てられることは、容易に想像がつくのですが、笑。

現代社会では、ほとんどの人が、デスクワークで頭を動かすことに従事して、パソコンは動かしても、身体を動かすことは、健康管理のためだけにするものに、なってきております。身体を動かす仕事に就いている人たちでも、その仕事に指示を出す人たちが、はやり机上で考える人たちなら、結局のところデスクワーカーと同じような発想しか持ててないのかもしれません。ですから、純粋に身体を動かすことに重点を置き、真摯に向き合っている仕事というのは、ほんとうのところ、すごく希な、貴重な仕事になるわけです。こうした現状を考えると、たった踵の重要性一つを説明するのにも、かなりの壁が、存在しているわけですね。

ここまでで、長い文章になってしまいましたので、これ以上は、今回は、掘り下げませんが、かなり乱暴に、きびすをかえす行為とつま先で方向転換する場合の動きの違いを、考えるとするならば、きびすをかえすのは、そのまま回転ができますが、つま先で方向転換するためには、地面を蹴るという行為が、加わるような気がします。つまり、武士のならいとしては、きびすを返すのは、身体感覚で行えるが、つま先での方向転換は、精神活動になる可能性が高いわけです。

実は、この踵の問題は、とても奥が深く僕的にもかなり謎が、多いのです。また、追ってこの件に関しては書く機会があると思います。よろしくお願いいたします。

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

その他

  1. 昔、フランスの大女優のイザベルユペールさんが、役作りについての質問をされたとき、「役は、どう演じるか…
  2. 前回は、身体を、筋肉や骨や内蔵などと捉えずに、気、息、水、脈、力、として捉えてみたらどうなるのかな?…
  3. 覚書 まず、これから、おこなうワークショップが、 何の役にも立たないということを知っていて欲…
  4. 2019/11/28

    所作塾 No 18
    体幹を鍛えるというのが、流行りましたが、いいところをついているのですが、なぜかそれでも身体感覚という…
  5. 2019/10/29

    所作塾 No17
    集中体験をすることが、人生を豊かにしていくことの本質なのかもしれませんよね。 今回は、集中の取…
  6. 2019/9/27

    所作塾 No16
    世間では、「目標を明確に持ちなさい!」と、常識的に上の人から、下の人へ、忠告されるわけですが、そして…
  7. 2019/7/30

    所作塾 No15
    所作は、基本的には、骨の動きになるわけですが、要するに骨「こつ」をつかむわけですね。ただ、骨は筋肉が…

命題

Je sens, donc je suis.
我感じる、故に我有り

デカルトの我思う故に我有りの命題を日本風になおしました。日本文化の原点です。

ブログカテゴリー

補足メモ

  1. 2019-3-8

    精神は、身体に触れられない

    こう切り出したら、ある人から、いえ、私は、身体にいつでも触ることができますよ、むしろ精神には触れない…
  2. 2019-1-4

    錐体系と錐体外路系の運動

    私たちは、何か行動を起こすとき、意識している行為と無意識の行為があります。つまり、自覚的行為と無自覚…
  3. 2018-2-20

    量子力学的な身体観

    現代では、精神が身体よりも上位に位置し、身体を生きていくための道具と捉えているからでしょうか?身体を…
  4. 2018-2-16

    識別感覚と同調感覚について

    前回の「理解という概念の固定化」の続きのブログです。この問題は、何度か伝ふプロジェクトでも書いていま…
  5. 2018-1-8

    理解という概念の固定化

    最近では、理解しないと動けないという人が、増えています。ワークショップをするにしても、最初に座学を入…
ページ上部へ戻る