躍動する無常観
日本の無常観は、古文の中に多く表現されています。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。(平家物語)
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。(奥の細道)
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。(方丈記)
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。(徒然草)
などなど、たぶんこうした無常観というものは、昔の日本では、ごく普通に浸透されていた概念だと思います。ひるがえって、現代はポジティブシンキングの全盛期でありますから、こうした無常観というような仏教的概念は、楽しくもないし、興味もないところだと思います。それよりは、永遠の愛だとか、自由だとかいう西洋思想のほうが、明るくて楽しいので、受け入れやすいというわけですね。
さて、ではこの無常観というものは、ほんとうに単に侘しいものという側面だけで、捉えて良いのでしょうか?
よく考えますと、上記の人々は、いささか世間からは、離れてしまった知識人の書いた言葉が残っているわけです。つまり、とても頭の良かった人たちが考えた無常観であるわけで、そうした場合、それらの観念は、より精神活動に近い観点であることは、歪めないところだと思います。つまり、東洋思想にしろ西洋思想にしろ、乱暴な言い方をすれば、賢者たちによるそうした思想は、机上の空論である可能性があるわけです。それらの思想は、権力によって広まり、情報化された現代の人たちが、こうした概念を再考することなく鵜呑みにしているだけなのかもしれないわけです。
では、いったい庶民が捉えてきた無常観には、いったどのようなものがあったのでしょうか?例えば、お花見です。
以前、フランスのウエブTVの取材で、お花見と日本文化について、番組の最後にまとめをお願いします、と言われ、あわてて思いついたことをとっさに、話したのですが、それは、だいたいこんな内容でした。「桜は、綺麗で、人々を高揚させますが、その反面、散っていく桜のはかなさは、時に残酷に人々の心をえぐります。しかし、実のところ日本人は、その喪失観だけを見るのでは無く、そこから生まれる、新しい生命観も同時に見ているんですよ。」と言いましたが、哲学的すぎて通訳が難しすぎると怒られました。笑 桜の満開の木の下で、気が狂うほどの美しさに身を震わせ、やがて散りゆく桜の花は、我々の心を揺り動かしながら、つぎなる生命を呼び込む神聖な儀式のように、我々を、躍動させるのです。
盆踊りもそんな無常観の表現のひとつになりますでしょうか?故人の魂を弔いながらも、その周りでは、新しい生命に向けての営みも同時に行っているお祭りだったわけです。
そして、お祭りに限らず、普段の生活の中にも無常観は、反映されています。というよりは、むしろ、無常とは、特別なことではなく、とても自然なことであったわけです。例えば、武道における居つきを嫌うとは、まさに無常であることを佳しとする世界なのだと思うのですが、いかがでしょうか?ここまで来て、ちょっと論点がずれてきたとお思いでしょうか?実はここが、日本文化を多少複雑にしているところなのですけど。ダブルスタンダードというのでしょうか?つまり、精神活動としての無常観と、身体活動としての無常観は、全く違う観点であるにも関わらず区別されて語られていないわけです。そして、どうしても、精神が作り出した無常観を主として、捉えてしまおうとする傾向が強いわけです。このサイト「武士のならひ」の大前提として、日本文化の源泉は、精神活動ではなく身体活動の上に成り立っているのだとするならば、このような精神論からは、早々に脱却しなければ、その本質を見失うことになると思うわけです。
さて、躍動する無常観とは、どんなこと?
ここからは、ポジティブシンキングの人は、読まないでください。為になりません。
私たちは、失ってしまったものや、無くなっていくものに、興味を持ち心を動かされます。上記の散っていく桜を哀れと思ったり、源氏より平家のが好きだったりと、(哀れをきわめて、あっぱれという言葉が生まれました?)なぜか滅びていくものに、引き寄せられているわけです。それは、別に日本文化と関係なくても、例えば、普段行ったこともなかったデパートが、今月末で閉店ですといえば、何となく行ってみたくなったりするでしょう?これで最後ですと言えば、それだけで集客力につながるわけです。なにかを得た喜びよりも、失う悲しみのが、強いはずです、しかも何かを得た喜びは、共感してもらうことは難しいのですが、失った悲しみは、容易に共感してもらるはずです。(これは何も、人の不幸は蜜の味だからとかいう理由ではありません。そのことは、また死生問題の時にふれます。)
つまりですね、私たちの持つ集中は、無くなるもの向かって進む特性を持っているのだとしたら?
ああ、なんて事を今頃、知ったんだろうと思う!かなり、歳をとってしまった!この法則を知った今、僕の中で、革命的にいろいろな大前提が、根底から崩されていくわけです。小さい頃から、何万回と挑戦してきた、集中という行為、この行為の先に何を置いてきたのか?まさか?なんてこった!
ほんと全く勝手な解釈をさせてもらうならば、「諸行無常」とは、集中の矛先とする対象であり、それは自然な流れなので、「諸法無我」が対処すべき姿であり、そうした行為はまさに「寂滅為楽」となり得るわけです、これは、もう何も宗教的な悟りを説いているのではなく、日常私たちが生きていくためのハウツーものでしかないのではないのか?(仏教徒さんに怒られますね。すみません)
こういう書き方をすると、すぐにスピリチュアルだと勘違いなされる方が、いらっしゃいますが、これは、とてもテクニカルなお話として、ほんとうにいろいろと新しい展開を生み出してくれると思っているのですが、、、、