精神は鍛えられないのか?
ちょっと前のことですが、世界のトップに君臨するアスリートさんが、「うつ」であるという告白のニュースに、かなり驚いてしまいました。
世界のトップに昇り詰めるのには、強靱な精神力が必要であることは、容易に想像できるし、並大抵の努力では、勝てないだろうし、試合の駆け引きにおいても、精神力は必須であることは、素人眼にもわかる話ですよね。
それが、「うつ」です。と、それは病気だからですか?精神力とは関係ないのですか?
チームには、コーチングのトレーナーさんもいるだろうし、当然ポジティブシンキングしているだろうし、なぜ?それなのにと思ってしまいました。
身体は鍛えられても精神は、結局、鍛えられない、その程度のものなのか?
また、あるニュース番組で、○道のやはり世界のトップに君臨するひとの強さの秘訣という、特集をしていた。この人は、たった、一度だけ、世界大会で負けたことがあるわけですが、その時の映像を出して、とにかく、試合が終わって負けた瞬間から、ビービー泣き出して、表彰式でメダルをもらうときに至ってもまだ、ビービー泣いているとう。
そして、ニュースキャスターいわく、この悔しさをバネにして今の強さがあるんですね。と美談でまとめた。
まあ、そうかな~と、感動のあまり、見過ごすことろですが、あれ?ちょっと待てよ。
こんな感情をあらわにしていいの?悔しいから戦うの?
これを美談にするのなら、勝ったときのガッツポーズが不謹慎だとする意味が、よくわからない、だって、別にいいんじゃないのかな?ビービー泣くのとなにが違うのか。
しかし、ほんとうにこれで、いいのかな?かりにも道と名付けられた世界の頂点にいる人がこういう精神状態で、
ここを目標にみんなが努力するわけですよね?それで、尊敬できる訳ですか?
スポーツというのは世界のトップに君臨する人たちが、感情むき出しで戦って。
それをみて、観客は、感情むき出しで応援して楽しんで感動する?
それは、そういうスポーツという興業の世界なのだから良いとして、
それで、どうして「うつ」になるのか?なぜそうなるのか、テレビでは、そのあたりをスルーしてしまって、誰も解説してくれません。
いや、むしろ切り離して、関係ないものとして話している。病気だからしょうがないのか?
そこで、僕が勝手に推測してみると、思うに、まず、スポーツが結果至上主義であること、つまり敗者には生存価値がないこと。
ですから、自分以外は、全て敵であるということ、全ての敵を倒した人が、結果として、頂点であるということ。
こうなりますと、自分以外はすべて敵であるわけですから、孤立しているわけですし、孤独でもあるわけです。
こうした他者を敵とみなして戦うという取り組みは、人間が人間らしくありたいという、本来のめざしている姿ではありませんので、結果、生命力を失いますし、そのためにストレスがたまるのだと思います。
人はむしろ、他者と交わるために生まれてきました。そのために、個としては、かなり不完全な要素をたくさん持ち合わせています。誰だって自分のことが、一番わからない存在であり、理解不能の存在であったりするわけです。自分以外の世界があって、初めて、その違いをみて自分が浮かび上がってくる程度のものなのです。ここに一つ大きな仮説が、考えられます。つまり、自分のかけているところは、それは意図的に他者が入ってきやすくし、共有するための間を作り出しているとも考えられるというわけです。
武道において、相手とは、敵として排除するものではなく、自分の間に迎え入れて、取り込むものであるわけです。
その頂点に立つ人は、より多くの人を取り込んだ結果であり、つまり多くの人の人生を背負ってたつ人であるわけですから、尊敬に値するわけです。そのための技術として、自らの主格の喪失をうながす。つまり、先人たちの誰もが口々にした、「無」というものに向かうことを佳しとしたのだと思います。そうでなければ、他者をやすやすと受け入れることが難しくなるわけですからね。
ひるがえって、現代は、自分というものの存在を全面に押し出すことを善とする風潮があります。したがって、他者を受け入れることが、なかなか、できないままに、孤独と戦う人生に陥りやすいわけです、ですから、努力とはうらはらに、簡単に「うつ」というものになるわけです。他者を敵とみなしている以上、これからも大量に「うつ」を作り出すことになるかもしれませんね。温故知新があまり言われなくなってきた現代は、未来だけを見つめて、頑張って行くという方法しかとれないのでしょうか?