選択と結果
Life is a series of choices
「人生は選択の連続である」は、シェイクスピアの言葉として有名ですが、今は何事においてもポジティブな時代ですので、よりよき未来のためにも、何事も人任せにしないで、自分で積極的に良いものを選択していくべきだと思われています。受身の人生ではなく、自ら自分の人生を選択し、進んでいくべきであるというのが、西洋的ではありますが、いまでは、日本でも一般的な考え方ですよね。
そして、この選択という行為の後に気になるのが結果ですよね。こういう選択をしたから、こういう結果を勝ち得たのだという、因果論にも通じる考え方です。こうなりたいという目標を決めて、その実現に向けて、今、前の前にあることを選択していくわけです。ここでよく言われるのが、いかに明確な目標を持つことができているかですね。その目標にむけて的確に判断して、選択をしていくということです。確かに、わかりやすいし、努力の方向性が見えているように感じられます。ただ、目標に直線的に向かっているうちは、良いのですが、ちょっと紆余曲折しますと、心配になりますよね。つまり、急がば回れってことが、難しくなります。
ある人が、牛丼食べて、オーディションに行ったら、合格だったとしても。次も牛丼食べたら、合格で、親子丼だと失格なのか?というと、違いますよね?でも、原因を探求しているこういう思考が、強くなり、あのとき、あれがあったから、○○に至ったんだと、勝手に紐付けして納得するわけです。これは、過去の事象に対して、憶測するのには、有効かもしれませんが、本当に未来のことに適用できるのか?僕は、疑問に思います。
また、選択と結果の、一番の問題点は、過程が、論じられなくなることです。結果さえよければ、よいという事。スポーツの世界でも言われます。勝たなければ、意味がない。演劇でも言われます、結果出来なければ、意味がない、人に認めてもらえないなら、意味がない。みたいなことになりかねない。そして、結果のためなら手段を選ばないことは、美徳であるとさえ、価値観は変容をとげてきています。
その結果どうなると思いますか?ロールプレイングゲームをしている人を見たらわかります。ある選択をしたら、あとはボタンを連打して、結果がでるまで、早送りです。歳をとると年月の流れが速くなるといいますが、早いと感じる原因のひとつは、これじゃないですか?笑。人生の結果を早く見たいために早送りしているのかもしれません。
先日、電車のなかで、泣いてぐずっている男の子がいました。何をぐずっているのかと、思えば、次の駅まで退屈で耐えられないから、ゲームをさせろと親に訴えているのです。親御さんは、もうすぐ着くから我慢しなさいと言うわけですが、もう泣くは叫ぶは、大騒ぎです。笑。これ、やばくないですか?もう5歳ぐらいにして、すっかり人生に飽きてしまったのです。飽きないということが、子供の特権だと思っていましたが、すでに時の流れの中で、結果というご褒美しか見えてこないとしたら将来が心配なのであります。大げさ?
確かに、結果と原因は、人生を左右する大事なことかもしれません。しかし、わたしたちの人生のほぼすべてと言っていいほどの時間というのは、その過程があるだけなのです。この過程が豊かでなくして、どうして人生が豊かにできるのか?結果だけで、満足できるのでしょうか?冷静に考えないといけない話なのかもしれません、たった一度の人生ですから。
現代の論調は、客観的立場を通り越して、当事者感覚のない観念が主流になってきています。マスコミは、取材も検証もしないで、どこから出たのかもわからない考えを、押しつけて正論にしてきます。ツイッターでは、当事者でもない人が、経験もしたこともないことを勝手な正義感をもって、他人に対して批判を平気でしてきます。人間という生物という実態を棚に上げて、訳の分からない概念だけを信じて、実際の人生に当てはめようと無理強いしているのです。知性が、すっかり実際の人生から遊離して、概念だけの産物になろうとしている。これは、何だろう、たぶん、攻殻機動隊の時代になりつつあるわけでしょう?みなさんは、ゴーストになり傀儡師としてしか生き残れないわけです。ですから、今、物部氏を見直すか、物部氏の呪いに負けて、ゴーストになるのか?岐路に立たされているのです。違うか。冗談ですよ。笑 でも、ゴーストになる前に、生身の人間として、身体をつかった経験を人生に生かしていかないと後悔しても遅いです。
そして、シェークスピアの時代と違い、「人生は選択の連続だ」と言えないほど、人生と選択の関連性が希薄になってきているのかも???首相もよく言うじゃないですか、選択してみたけど、あとから、記録にも記憶にございません、とか、あたしい判断です、とかね。まあ、その程度のものでしょう。