刺激反応からの脱却

生物活動は、何らかの刺激や変化に対する、物理化学反応である。
これが、大定義として、私たちの身体観を作っていると思われます。生きているのか死んでいるのかを判断をするときに、目に光を当てて、瞳孔が反応するかどうかを、調べるのは、まさにこの生物の定義からくるものですね。
これを進化させて、人間は、刺激→判断→行動 と、脳や自我が加わるわけですね。そして、それらは統合されていて、神経でつながっていると、まあ、こんな感じでしょうか?
この身体観から脱却するというお話です。まず、この考え方は、理解はしやすいのですが、実用性に乏しいのです。刺激を受けて、脳で判断して、動くのにだいたい0.5秒かかると言われています。つまり、この行程では、ただのダサい人ですねで、終わります。ですから、反復練習によって、無意識で行われるレベルまで、訓練してくださいということになる場合が多いと思います。しかし、その反復練習は、さらにださいことになるかも?というのは、天は二物を与えずに書きました。しかも、すばやく反応するために、識別を迅速に行うために、感覚を研ぎ澄ましましょうということになるわけですが、むしろ、この識別感覚が主導権を握ることによる弊害が起きることのが、もっと困るわけです。
参考ブログ:同調感覚と識別感覚
刺激を外圧ととらえて、識別すれば、表面で防御します。この刺激は、内側へ到達することができません。というか、こうした外部の刺激が、内部に達した場合、もう終わっているわけです。したがって、行動が表面的な対処になるかもしれません。しかし、刺激と同調すれば、内側から反応が起きます。このほうが、局部から全体への反応がスムーズになるのは、図からもわかると思います。ただ、この感覚には、伝達ルートが見当たらないわけです。このことが、科学にならないので、こうした考えは、ほぼすべての文献から、排除されてしまうわけです。それは、エビデンスが無いのではなく、科学の進歩がトロイだけの話というか、こうしたお話は、現状の経済活動を脅かす理論にもなりかねないので、わざと科学することを避け、封印するしか現状ではないのだと思います。要するに、伝達経路が、はっきりしている事象しか、科学では取り扱わないわけです。
こうした科学的発想は、科学というものがヒットラー以降、国家と経済から分離することができなくなってしまった分野になってしまいましたので、もうあきらめることにしましょう。そんなことよりも、普段の生活を豊かにしたいと考えるのなら、いっそ、こうした現象は、科学的ではなく文学的に捉えて考えるわけです。笑
私たちは、外部からくる刺激に対して、日光の三猿(見ざる聞かざる言わざる)のように識別をさけるわけです。そして、身体の中におきる内なる変化を見逃さずに感じ取るわけです。そして、ここで得られた内なる感覚は、外部からの刺激から識別感覚によって得られる感覚とは、まったく別の原理で動き出すのです。この原理の違う、感覚は、外部に向かって動くとき、劇的な変化を遂げ、爆発的な力や何かを発揮する可能性を持っているわけです。芸術は爆発なのです、つまり、成るわけです。この成るを文化の力として、スポーツや芸能、芸術の分野まで、活用し、独創性を生み出してきたのかもしれません。
古武術で、相手が斬りかかってきたところを、見てから動き、先に剣を相手に到達させるという技がありますが、科学で考えていたら、多分、たくさん稽古して、筋肉をつけてくださいとしか、回答は得られないでしょう。そして、どうやっても無理ですという結論になります。きっと昔の人が、盛って作ったお話ですよ、で終わりです。でも、この成るを使えば、逆転の可能性が見えてくると僕は、思えています。
こうして思えば、日本の八百万の神々は、誕生することなく、なにか別のものから、成ることによって生まれてくるのです。将棋の駒も、日本では、成ることができます。古来、蛙や蝶々を神聖な生き物として捉えてきたのは、原理の違う生き物に生まれ変わる(成る)力があるからです。
このアプローチこそが、日本の芸術のありかたを示していると、僕は思って、とてもびっくりしながら、これからも追求していきたいと思っています。
参考ブログ:見えないものを見る
もう、これ以上の説明は不可能なので、遊びにいらしてください。笑