所作塾 No6
所作塾 No6 2018/11/26
今回は、ちょっとお芝居に関する所作を重点的にやりました。
導入として、若者たちに、旧仮名遣いの文章を朗読してもらいました。漢字は、見たことも無い字だったり、言い回しも変だし、読み慣れないし、とても難しかったと思います。どうして、現代のような進歩することしか考えない時代に、こんな古いものを見せるのか?懐古主義なのか?僕がじじいだから、若者にこうしたものを押しつけて、悦に入っているか?といろいろと思うかもしれませんが、そうではなくて、単に日本語の基礎を多少知らないと、何かと不便なので、実は避けて通れない事だと思っています。
世の中には、言霊があり、その言葉には、世の中を変える力があるとか、信じていらっしゃるかたもいると思いますが、そういう人たちが、日本語を大切にしているのかというと、ちょっと疑問に思うこともあります。言葉を単に、自分たちに都合の良い道具と思っている限り、なにも生まれないような気もします。すみません、いきなり脱線しました。
では、旧仮名遣いの何が違うのか?読んでみれば、分かりますが、一番の違いは、現代語は、読んでて自分の読むという行為に飽きてくるんです。読みながら、長いなとか、変な言い回しだなとか、なんで私が読まされているの?とか、そんな思いが起きることがあります。これを耐えることが、稽古なんだなんて思わないでください。そして、こんなことが一瞬でもよぎるんだったら、朗読劇は上演しないでくださいね。
氣という漢字が、気という字に変えられて、氣が流れなくなったように、旧仮名遣いの廃止は、息を流れなくさせるためにしているわけです。ですから、なぜか私たちは、ここぞというときに息を止めてしまったりすることがあります。これは、所作としては、決してやってはいけないことなのですが、息を止めると力がでるような、そんな気持ちにシフトさせられてきました。
稽古では、この息がながれないと、腹や腰は、決まってこないことを、体験してもらいました。
「思ふ」という言葉を、「思う」という新かなずかいにすることにより、息の流れを断ち切ります。次々に切られてしまうので、滑舌が気になり出します。それどころか、仕舞いには、発声練習まで、あ、え、い、う、え、お、あ、お、とか切って練習してしまう。これじゃ、ストレスがたまるし、生命として、とてもおかしな、習慣になっているように思います。私たちは、人間として、演技をする場合、ある役柄として、物語の中で生きるためにも、感情がながれ、感性がながれ、気がながれ、息がながれ、血が流れ、そうした流れのなかで、生きていることが大事になのです。演技するために、いろいろなしがらみを断ち切って、その流れを止めてしまっては、いけませんん。もちろん、日常生活においても、大切な要素だと思います。病むとは、まさにこの止むことなのです。
この事は、いろいろな事に役立つ、すごい大切なヒントだと思います。私たちは、行き詰まったら、何が止められているのか、身体の中でそれを感じればいい。そして、そこが息詰まらないように、流してあれば良いだけなのです。これが、最低限の基礎なら、すぐにでも実践が可能なような、気がしませんか?とりあえず、是非、一度、だまされたと思って、旧仮名遣いの本を朗読してみてください。
塾の後半は、全体性について、やってみました。演技をしていますと、ついつい、演技という一場面の局部性に気を取られてしまいます。しかし、肝心なのは、その役の全体性なのですが、局所をいくら重ねても、その役の全体性を表現できるとは限りません。そのことに、早くに、気づくべきなのかもしれませんね。では、全体性をどう表現するの?という事ですが、これは、もちろん、簡単な話では、ありませんよね。ただ、局所と全体性は、同じアプローチでは、だめだということに、気づき、考え方を改めてみましょうということです。そうしないと、答えは永遠に見つかないのかもしれません。みなさん、一緒に頑張って、技にしましょう。
最後に、集中の一つのあり方についてもやりましたが、文章が長くなりますので、今回は解説はやめて、また今度、どこかで、笑
次回の、所作塾は、12月10日です。よろしくお願いいたします。
参考ブログ(なぜ伝うでなくて伝ふなのか?)