リアリティってなんだ?
リアリティは、大事だってことは、よく言われます。リアリティのないことをするなとまで言われて、行動の指針にもなったります。でも一方で、映画とか、見ていて、リアリティが無いな~って思う作品と、それなりに、納得できる作品があったりと、感じ方はまちまちです。中には、リアリティがなさすぎて、作品を楽しめなくなったりすることもあります。でも、どの作品も、たぶんリアリティを追求して作られているんだと思います。ですから、僕が、耐えられないと思った作品でも、他の人は感動していたりするのです。これって、ちょっと不思議な現象です。
また、リアリティとは、少し違うのかもしれませんが、もっともらしさってのも、ありますよね。僕たちは、伝ふプロジェクトをやっていますが、このグループをさして、間違った日本文化を伝えないでくださいと、ご指摘を頂いたり、チャラいという評価を頂いたりと、やはり、受け取り方は、まちまちなのです。しかしわざわざ、間違った日本文化を伝えるために、身銭を切って時間をさいて、みんなで頑張っている集団って、逆に考えると、ちょっと面白いですよね。笑。またチャラいってのも、僕的には、かなりのほめ言葉に感じています。でもね、もし、僕たちが、貧乏で、稽古場がなかったり、衣装がそろわなかったり、小道具がそろわなかったりと、そんな金銭的なことで、また、そんな風に見える部分で、間違った日本文化と評価されているのであったのなら、、そのもっともらしさってのも、考え直した方が、良いような気がします。それは、僕たちも含めてですけどね。もちろん、商業的に考えると、そのもっともらしさってのがとても大事で、そのもっともらしさに、お客さんはお金を払うという現象は、確かにあると思うわけですし、自分もそういうところがあると思います。しかし、私たちは、本質的な日本文化を求めて活動しているわけで、金銭をかけた日本文化を追求をしているわけでは、ありません。が、現実問題として、資本がありませんので、そういう意味では、かなり、僕たちは、もっともらしくない訳です。笑。パラドックスか?この問題?こうなってくると、なかなか難しいループにおちいる問題ですので、だから、無視します。笑。脱線してしまいました。
そして、役者は、自分の演技の中にリアリティを求めるわけです。自分の演技が、ちゃんと出来たのか、上手くいかなかったのか、自己評価するのも、たぶん、このリアリティが持てたのか、持てなかったのか?ってことを重視する人が多いと思います。演出家さんだって、言います。もっとリアリティのある芝居をしろっ!てね。
つまり、リアリティってことは、個を大事にする現代では、特にとても大切なことなのかもしれません。でも、このリアリティって、万能のようで、そうではないような気がします。例えば、以前、若い役者さんが、彼女が出来たことがないので、恋愛のシーンがわからないんですが、どうしたらいいですか?と、聞いてきました。つまり、リアリティ(経験)がないから想像がつかないというわけです。でも、もし、そうだとしたら、殺人者の役は、人殺しをしてこないといけないわけですし、貧乏な人は、お金持ちの役は、一生出来ませんよね?さて、難しい問題です。たぶん、普通の演技の先生なら、それだけ精神を鍛えて、そうなるまで、役作りをしろとアドバイスするでしょう。でも、そういうリアリティって、結局のところ、上記の映画と一緒で、伝わったり、伝わらなかったりと、不確定だと思うのです。では、彼女が出来たら、恋愛のシーンが出来るかといえば、そうなればそうなったで、たった一人の経験では、ダメだと言うでしょう。じゃあ、何人の女性とつきあえば、恋愛のシーンが安心して出来るようになるのでしょう?だいたい、誰でもそんな経験がなくても、彼女は出来るわけですから。笑。結局のところ、各個人が抱く、こうしたリアリティは、共感することがあっても、共有することは、なかなか難しいものかもしれないのです。
つまり、個人のリアリティに軸足を置いて自分の立ち位置を築くのは、危険かもしれないって、お話です。
最近は、いろいろなことの考える物差しが、個人主義だったり、商業主義だったりと、長い歴史の流れから見ると、かなり偏っているのかもしれません。でも、それでうまくいっている人は、それで良いんです。否定はしません。
ただ、ちょっと違和感を抱いたりしてしまった人や、文化って何だろうって考えてしまった人、継承するべきものは、何だろうって考えてしまった人は、立ち止まって、このリアリティをもう一度考えると面白いと思います。大方の役者さんは、リアリティを追求して芝居をしていると思われますから、軸足を払われてしまう事になれば、一大事です。
これは、下手すると、自分が経験してきたことをどう捉えるかという話にもなりますから、かなり酷いことを書いてますよね。このブログ。リアリティや経験は、大切だけど、そのままでは、継承すべき形になっていない可能性があるかもしれないということです。貴重な体験を語り継ぐ事は、大切だけど、伝わるものが、ただの精神論であったのなら、結果としては、厳しい結果です。つまるところ、伝わるものというのは、その人の個人的なリアリティそのものではないのかもしれないよ。という、勝手な問題提起でした。ごめんなさい。
共有できそうなリアリティ。同じ時間に生存していること、同じ場所にいること、お互いに共有出来ていないもの(失ったもの)、隠されてしまって見えないもの、、、??そうしたものに変換されていく、個の経験と経験を越えた感覚世界?無茶苦茶、意味不明ですから、質問は、なしね。笑