可視化と人工知能が進む未来
先日、縁があって、投資信託を手掛けるプロの方のお話しを聞く機会がありました。
どのような会社に投資をしたら良いのかを判断するには、十年後の未来予想図を描いてみないといけないというお話しの中で、この先、可視化されてなかったものが、どんどん可視化されるようになるだろうと予測していました。
例えばの話ですが、不動産でいえば、マンションの情報など、現在では、築年数とか、間取りとか、立地などの条件だけですが、いずれそのマンションに住んでいる人達の人間的評価も数値化されて、情報化されるかもしれない。これはあくまでも、仮設ですが、そうやって今までは、数値化されずにいたものまでが、数値化されて人工知能が判断処理するようになるだろうというお話しです。
人間性や、人気度や親切度みたいなものまで、数値化されてしまう可能性があるというわけです。これは、怖い話ですね。もちろん、企業の方達は、どんどん便利になって素晴らしい世の中になると思っていらっしゃるのですけどね。情報は、多い方がいい、そして処理しきれないほどの情報をコンピューターが代わりに計算してくれて、人工知能で判断してくれるだろうというわけです。
しかし、本当にそれで良いのでしょうか?僕は、単に懐古主義的に言ってるのではなく。こうした方向性が、どんどん人間性を放棄しているように思えてしょうがないのです。それはそれで、精神的に病む人が増えて、医療機関が儲かれば、さらに経済効果があると判断されて、喜ばしいことだとするのでしょうけど。
例えば、絵文字というものが出来て、真意が伝わりにくいメッセージに感情の情報が加わり、内容がわかりやすくなり、とても便利になりました。ところが、その便利さとは裏腹に、感情表現の画一化が起こっているという事を聞きます。つまり、人の感情は、絵文字で表現されるものだけに、すり寄ってしまって、複雑な感情表現は分かりにくいということで、淘汰されてしまうという現象がおきているのです。人の感情は、笑う、怒る、泣く、喜ぶ、唖然とする、焦る、ぐらいに集約されてしまって、いろいろな感情が複雑に交錯するようなことは、現象としておきなくなってきているというわけです。切れやすい人が、増えているのは、そうしたことも原因の一つかもしれません。
また、例えばオレンジジュースがあったとします。現在の技術があれば、果汁を一切つかわずにオレンジジュースを作ることが出来ますし、実際売れているわけですし、それを美味しいといって、飲んでいるわけです。そして、本当のオレンジを食べたとき、ああこのオレンジは、甘みが少ないなと思うかもしれません。ええ?それって、何と比べたのでしょうか?まさかの、まったくのフェイクであるはずのオレンジジュースの味が、味の基準になってしまっているとしたら?実際に、こういうことがおきてきている。自然なものが自然に感じなくなり、人工物を自然に感じるようになる。
詰まるところ、不確定なものの行く末が、まったく行き詰まってしまってきたわけです。そして、世の中のものは、全て計算がしやすい簡単なものへと変化していく。それは、科学の技術が著しく進歩しているのではなく、間違いなく人間の劣化が著しく進んでいると考える方が、自然だと思います。ヴァーチャルリアリティがすごいのではなく、ひょっとしたら、ヴァーチャルなものを見抜けなくなってしまった人間の方が、ひどく衰えてしまったのかもしれない。そして、生きる人生の価値基準を経済に据えるということになんの疑問を持たない現代の私たち、多少違うと思っていても、生きていくためにはしょうがない事だと、見て見ないフリをする。そう、科学とは、自然界の不確定な揺らぎを奪って、しょうがないでしょうという価値観を人々に供給するシステムなのかもしれません。