正面を嫌う文化
日本人は、正面に対峙して、面と向かうことが好きではない。現代では、人と話すときは、「ちゃんと相手の目を見て話しなさい」と注意されることもあるかと思いますが、その昔は、人と目を合わせることは、とても失礼な行為でありましたから、避けていたと思われます。対峙することは、戦いを意味しますので、柔道や剣道、将棋などは対峙して正面に座りますが、そうで無い場合、礼法や、茶道などでは、正面に座ることを避けていると思います。
この関係は、神社にあります鳥居と本殿の位置関係にもよく現れています。例えば、平安神宮は、明治時代に中国の宮殿を模して作られたと言われていますが、鳥居から見事にシンメトリーに建物が配置されています。これは、一説には、地方から来たものに中央の権力を見せつけるために、威圧感を出すための演出でもあると聞いたことがありますが、中国や西欧によく見られる配置ですね。
一方で、伊勢神宮は、本殿こそはシンメトリーですが、鳥居はかなり中心からずれています。ほぼ後ろ側から回ってくるイメージに近いですね。明治神宮も鳥居から本殿までは、二度直角に曲がってから本殿に到達します。
どうして、このような配置になったのでしょうか?正面から、神様に近寄るのは、失礼だから?それは、あると思います。最初に書きましたように、対峙することは戦いを意味していますから、神様に喧嘩を売っても勝てませんので、こっそり横から忍び寄るわけです。正面から堂々と近寄られて、頭を下げられても日本人としては、敬われているとはあまり感じないわけです。自分にそうされているのを想像しても、分かると思います。また、参道の真ん中は、避けて歩いたりもしますが、そういった意味があるのかもしれません。
一方で、意乗り(祈り)という言葉を聞いたことがありますでしょうか?現代では、神社は、自分の願いを叶えてもらうために祈願をしに行くことが、目的になっていますが、昔は、「意乗り」つまり神様の意志に従いますから、よろしくお願いいたします。という意味もあったようです。自分に降りかかる運命に従うわけですが、少しでもよい運命でありますように、またひょっとしたら神様の声(ご指示)を聞くことが出来るかもしれない。それは、まさに神様の訪れ(音ずれ)であり、そんな音を聞き逃さないように集中して参拝していたのかもしれないわけです。思えば、神社には音に関する仕掛けが、いろいろとあるわけです。榊、鈴、鐘、泊、拍子、笛、太鼓、水、火、敷石などなど、
こうした観点から見れば、神社というスペクタクルを楽しむためには、参拝者がすべきことが、おのずと見えてくるものがあるというわけです。礼を施し、禊ぎ、手を清め、身をただし、ある集中のなかに自らの身を委ねていくわけです。
そして、僕はこんなことを思うわけです。日本人が清らかに感じるのは、気の活きよいがよい所というわけで、穢れは、気が枯れている状態のことをさすわけです。ですから、神社という空間が、よく機能しているというのは、ある集中観(気)がその場によく流れている事であり、その事がまさに穢れのない清い空間であるというわけです。参拝という儀式は、その気を自らの身体に通すこと(同調)を試みるために、その集中された場を少しも乱さずに身を投じてみる試みであるのかもしれません。そしてこの時の、日本人の集中観として、左右対称になることを嫌ったのではないかと推察してみるのです。日本の神が偏在すること、特定の場を大事にすること、こうした偏りの中にこそ、美を見出していたのでは、ないのでしょうか?ある集中観を維持したまま、参道を粛々と進み、意乗りということに対する自問自答を繰り返す時、道の真ん中を歩くことを難しく感じ、シンメトリーの配置にいたたまれなくなったのかもしれません。そう考えると、正面を嫌うことは、身体感覚を大切にする日本ならではの文化なのかもしれません。
礼法において、座布団に座る時、正面をはずして膝をつき、そのあとで、座り直すのは、礼ということと同時に、自らの集中観の維持のためにもなっているのでは?と言うことです。
このようにして神社を楽しむのであれば、また違った趣があってとても佳いなと思います。
私たちは、西洋から入ってきたサービスという言葉にいつの間にか感化されて、お金を払う側のお客という立場の人には、何もする必要も義務も生じないと、普段から高をくくってしまっているのではないでしょうか?お金をだせば、御利益を受けられると考えるのは、やはり払ったお金の分だけの自己満足でしかなく、有難いと感じるのは、自分の作った集中観に呼応して、生じてくる感受性のことを言うのかもしれません。