伝はるもの その三 「身体」

SDGsとか言っている人間だけが、自然界の循環から逸脱していますが、ほぼすべての生物は、自然界で、継続可能な循環型調和を保っています。じゃあ、人間だけ特別な生き物なのかといえば、それはたぶん、意識という存在が高いだけで、身体的には、循環を保とうとしているほかの生物と同じなのかもしれません。

そして、この精神と身体のこうした不一致が、意識と無意識という形を生み出したのかもしれません。

精神は自我ですから、個別性があり、何かを相手に伝へるためには、言葉なり、身振りなり。なんらかの伝達手段を使い。伝達をするわけです。そういった意味では、とても科学的でわかりやすい構造をしております。

一方で身体は、自然物という観点からすれば、内的空間と外的空間が、循環され、また共有され、科学的根拠のない調和をしているとも言えるわけです。特に、人と人が、出会えば、内的空間がたちどころに共有され、情報交換がなされる。情報といってしまうと、どうしても現代人は、有益性を考えるかもしれませんが、そういった価値観の判断すら、そこには、存在しないのでしょう。それが、生命の営みなのだからしょうがない。そして、そこには伝達経路すら、必要としない循環がおきているわけです。この伝達経路がないことが、みなさんの理解しがたいところだと思いますが、、、。

伝えるという行為が、文化の継承のためと思い、何かできないかなと伝ふプロジェクトを立ち上げましたが、この問題がとても難しいところなんですね。精神が身体からはなれ、一人歩きを始めた瞬間から、伝えるという行為は、情報伝達という人為に変わり、その中には、多くの意図的な嘘が多く含まれてきます。情報化社会では、まさにこのフェイク情報に翻弄されるわけですね。精神が進化して、身体から離れて、いろいろなことを試みるわけですが、それらは身体からすれば、意味がないわけですし、文化には決してならないわけです。現在に至っては、情報=お金(経済)ですから、もう議論の余地すらない。わが国では、日本文化の定義を文科省ではなく経産省がしていることからも、お分かりいただけると思います。

それを見越してなのか、どうなのかは知りませんが、 身体の情報交換は、こうした意識の支配から逃れたところに存在し、独自性を保つわけです。これが無意識の領域なのだと思います。身体の独自性を無視する現代では、この無意識は潜在意識という言葉に置き換えて、意識の付属品のような位置づけなのかもしれませんが、古来、この身体の無意識性に気づいた人たちが、口伝や奥伝として、 身体と精神の橋渡しとしての文化を継承しようとしてきたのだと思います。

日本の伝統文化に口伝が多いのは、説明が下手で、しかも独り占めするためだと、多くの人が言いますが、そもそも説明が言葉なんて稚拙な媒体で伝えることができる時点で、それは精神世界に属し、身体の世界からはかけ離れたフェイクだと思うべきでしょう。そんなものは、わざわざ伝承するまでもないと判断してきたのかもしれません。そして、伝承するために言葉では、正確性を著しく損なうし、時代とともに風化し変質していくと思い、型と式で、後世に伝えようとした。その型の解読法としての口伝を継承した。身体というものの根本が、科学がまず否定してきたものの実態であるわけですから、まあ、パラドクスでよね。笑。よく、僕が言うのですが、科学的根拠を示せといわれても、唯物主義に根幹をおいている科学に向かって、そもそも科学的根拠を示す、科学的根拠がないですよね?冷静に考えれば、小学生でもわかるお話ですが、なぜかこういうことを言いますと、怒りを買うわけです。笑

伝はるものそれは、「身体のなか」、まるでそれは可逆性のイオン分子のように、反応する相手を求めて浮遊している。私たちは、それをパラサイト的に見守り、接点を捜し求める、その先にあるものが文化のあり方なのだろうと思うわけです。

私たちは、まず無自覚の世界を知り、無自覚を認め、無自覚を育んでいくことをしなければならない。

そうしたとき、はじめて日本文化の仕組みが垣間見れることができるのだと思います。

夢うつつ、幽玄、侘び、さび、かけ、、、、

この記事は、伝ふプロジェクトにコラムの内容と同じになります。

 

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