所作塾 No12
日本画の余白と集中観について、
日本の絵には、余白があったりします。それを見て、西洋の昔の画家達はびっくりしたわけですが、つまり、何もない空間が、存在することに違和感を感じたわけですね。日本人は、その事に関しては、見慣れているせいなのか、何も違和感は感じません。では、この余白は必要なのか?まさか、手抜きなのか?それとも、そもそもリアリティなんか求めていないのか?という問題が、残ります。笑
その事と、集中観にどんな関係があるの?って、お話ですね。僕たちは、小さい頃から、学校や家庭で、集中しなさいと言われ続けてきたと思います。つまり、なにか事をするときは、それ相応の集中が必要であると、教え込まれてきたわけです。それは、まあ正しいとして、じゃあ、その集中ってどうすれば良いのか?教えてくれた先生は、いましたか?たぶん、1人もいないと思います。(暴言)
ですから、皆さんは試行錯誤しながら、自分なりの集中観を作ってきていると思います。
そこで、まず問題になるのが、ポジとネガの問題です。私たちは、ある対象があれば、そのものに集中することは、案外楽ですね。普段の生活の中では、たぶんそうしていると思います。綺麗な女性がいれば、その人に視線は釘付けになる的な、お話ですね。しかし、そこには主観という落とし穴があるわけです。そして、その集中は、普段の生活の中では有用でも、文化にはならなかったわけです。スマホゲームにどんなに熱中しても、そこから文化は生まれません。笑
しかし、ネガに目を向けると、主観は消えます。綺麗とか綺麗じゃないとか、そういう下世話な価値観は消えていきます。そして、そうしたときに、実態を包み込む様に広がる空間に、対象の本当の姿を浮かびあがらせて、見いだしていくわけです。これなら文化になると思ったのかもしれません。
注意:これは精神論ではありません。あくまでも、身体論です。
ですから、読んでもなかなか分からないです。身体を動かしてみないと意味不明です。笑
つまり、私たちは、勝手に集中しなさいと言われて集中したところで、それらは、主観の塊で、他者と共有することが難しい集中なのです。勝手に、夢中になって集中した気になって、バリバリやられても、そういう人は、他のみんなの迷惑でしかなかったりするわけです。スマホ歩きをしている人が、好きでたまらない、見ているだけで惚れ惚れするという人がいたら別ですが。しかし、そんな人が出てきたら、人類の終わりも、かなり近いな。余談
私たちは、集中観が共有できないと、共に動くことが難しくなります。所作とは、つまり、この集中観の共有でもあるわけです。
舞台に立つ役者が、自分の役や自分なりの解釈した物語に集中して、芝居したとしても、共演者とその集中が共有できないのなら、たちどころに孤立するわけです。もちろん、お客様からも孤立し、気持ちよい眠りにお誘いすることになるわけです。僕の言ってること、おかしいですか?笑。
じゃあ、共有できる集中観って、どんな物なのですか?といえば、それは、文化です。
ちょっと意地悪ですね。
もちろん、所作塾に来てくれた人は、実技をしているので、分かると思いますが、つまるところ、例えば、それは自然です。自然な集中観、でなければ、自然に集中することなのかもしれません。それは、絵で言うところの余白なのかもしれない。実生活の中では、もっと広がって、空、海、川、風、水、息、脈、などなど、ヒントは、実のところ、いくらでもあるのかもしれない。そして、それらは自分で作る物ではなくて、見つけてだしては、その中にどっぷり浸かることで、集中は完成されるわけなのかもしれない。そうしたとき、自分でも気がつかない程、他者と行動を共にできている。想像以上に自分の力が発揮できているという現象に遭遇できるかもしれないわけです。
どんどん、研究していきましょうね。
次回は、6月17日です。百聞は一見にしかず。(中国語で見は、看という字です。見という漢字の意味は、会うということですよ。だから、これ中国語だとして、訳すなら、百の質問するなら、一度会ってきなさいというわけです:注意:勝手な訳です)
余白に関しては、以前にこんなブログも書いてました。
浮かび上がらせて見る