他者の目が人を作る?
かなり昔ですが、イザペル・ユペールさんが、日本に映画のプロモーションでいらしたときに、取材の人たちのくだらない質問にイライラしながらも、役作りについて、こんな素晴らしいことを言ってました。
私の役は、私がどう演じるかというよりも、私がどう見られているかということが、大事だと思う。人は、そういう風に他人から、見られて形作られていくものでしょう?
これは、ちょっと驚きの発言であります。役作りなんて、自分自身で勝手に作れよ!というのが世間一般の常識になっていると思うのですが、彼女の話だと、私の役はみんなで作ってねって、言っているわけです。笑
例えば、医者を演じる時、自分が医者に見えるためにどうしたら良いのか?と試行錯誤するわけですが、そうではなくて、とりあえず、他の共演者が、自分のことを医者だとちゃんと思って見ていろよ、と言っているわけですね。笑
この事は、子育てでもよく言われることですが、お母さんが、自分の息子さんなり娘さんを出来ない子だと思えば、といいますか、そういう目で見ていれば、子供達は、その期待に応えて、出来ない子から脱却出来ないわけです。そして、それは、子供達自身の自らの努力とは関係なく、子供達に強く拘束しながら、作用しているわけです。
だったら、お芝居でも、役作りを本人に任せて、ほったらかしにしないで、むしろ他の共演者が、積極的に関与してあげたほうが、効率的ですよね。
しかも、自分の事は、自分が一番見えてないし、分かってないし、どうしたらよいのか分からないものです。演出家に、ダメ出しをもらった時に、自分以外の共演者は、みんな分かっていて、簡単にああすれば良いだけなのにって思っていても、怒られている本人だけが、ツボにはまってて何をしていいのか、まったく、分からなくなって、勝手に八方ふさがりになってしまう。こういうことは、よくある稽古場の風景ですよね。
この話は、これ以上進めていきますと、だからポジティブシンキングが良いのでしょう!と勘違いされますので、そんな揚げ足を取られる前に、このへんでで辞めておきます。
お話を急展開しまして、ここから、演技にヒントなのですが、相手は自分の事をよく見えているわけです。そして問題なのは、自分は自分をどう見極めるべきかという事ですが、つまりは、相手は、自分の事を見えているわけですから、それは、自分を映し出す鏡になるかも?ということです。いきなり、かなり難しいお話になりましたね。笑
つまり、自分では分からない、見えなくなってしまった自分の影は、相手の中にあるよ、という禅問答みたいなお話です。まあ、だからと言って、相手の考えていることは、こちら側は、普通はまったく理解出来ないわけですから(分かってしまったら怖いし超能力者です)、そうやって、意識レベルで考えたのでは、テクニカルな話にはなりませんよね。
見るという現象と、考えるという現象は、別次元ですから、ぶつかりませんが、見るという現象と見るという現象は、同次元ですからぶつかり合います。相手の目を見て話しなさいとよく言いますが、目と目が本当に見合えば、衝突して周りが、見えなくなりませんか?(見るという機能の消失)?恋は盲目なのです。ですから、危ないので、大概の動物は、こうして目が合うことを嫌いますよね。
もちろん、これらは、目という感覚器官を使うので、識別感覚が優先されてしまうという欠点があるから、そういったことが起きるわけでもあります。目という器官で、見えるものは、意識層にあるものしかないわけです。ですから、そこでは、自覚することが難しい見失った自分を見つけることはできません。じゃあ、どうするのかといえば、自分の目を閉じてみるしかないですね。古くから心眼という言葉が、よく使われて、聞いたことがあると思いますが、でも、そんな大それたことじゃなくても、目を閉じて、相手の気配を感じることは出来ますよね。
その相手の気配の中に、欠落している箇所があるかもしれません。そこは、ひょっとしたら、目と目が合えば衝突すると言ったのと同じで、相手の気配が自分を見ているかもしれない。つまり、こういった現象を同調だとするならば、その気配のないところが、自分を見つける鏡なのかもしれません。しかも、同調しているのならば、こちらにも同じ情報があるわけですよ!だから、そこに集中を持って行けば、自分も相手も同時に役作りが出来ていくわけでは、ないのかな?これは、面白い!と思いませんか!!
もちろん、目を閉じていては芝居は出来ませんから、目を開けているのですが、識別するような感じで相手を見ないで、相手のざくっとした気配を感じてみてください。そんなことを確かめあいながら、演技するのも、ちょっと面白い、糸口になるかもしれないのですよ。むしろ、その目で見えることがない気配のほうが、実態に近いものをしめしているし、使い勝手が良いと思います。
余談ですが
電球を割って光源を探しているのが 今までの病理学と解剖学だ。 しかし、体は影、実在してはいない。 無いものが病んでいる訳が無い。 体にこだわっていてはいのちは見えない。 慧可は腕を切った。 南泉は猫を斬った。 いのちは体にあるのではない。
野口晴哉botより