「間」という概念
「間」が大切であるとは、よく芸事で聞く話ですが、いったいその「間」とは、何なのか?
一般的に、「間」は、時間的なものと、空間的なものがあると思います。芸事でいう「間」は、時間的な事を言っているのでしょうか?それでもやはり、「間」という言葉で、表現されるものは、時間と空間の両方の意味を同時に、含んでいるような気もします。そういう曖昧さは、とっても日本的で、面白いところですね。
例えば、「間抜け」というのは、間が無いわけで、だから、タイミングが悪い人という解釈になるんだと思いますが、でも、冷静に考えれば、間が無い方が、タイミングは合せやすいですよね。では、いったい何が、抜けたと言っているのでしょうか?
これは、要するに「間」が何なのかという問題なわけですが。
役者や芸人の人に、「間」の取り方を聞けば、分かるかもしれませんが、つまりは、その「間」は、誰のものですか?って事ですね。初心者に陥りやすいのは、「間」を自分の基準で取ってしまうパターンですね。(注意:これ僕の勝手な演技の考え方になりますので、違う人は、飛ばして頂くか、読まないでください)演出家に「間」が、悪いといわれたら、頑張って一生懸命稽古して、自分を磨けば、その「間」がよくなるのか?良くなりませんね。だって、「間」は自分の感覚で取るものでは、ないからです。「間」は、自分が入り込めない領域の事です。つまり、それは、まったくの他者であり、ですから自分では「間」がとれません、そしてそれを計り知りえるのは、唯一、感性を誘導させるしか手がないわけです。その感性を誘導させるには、自我とか意志は、とても邪魔な存在ってわけです。なぜ、「間」という言葉に、時間的空間的な二つの異なる次元が同時に存在するかは、つまりは異次元であり、感性が誘導される場が形成される空間だからだと思います。
「間抜け」とは、「間」が抜けた人、つまり、感性が動かない人のことでは、ないでしょうか?
「間」とは、自分が入り込めない領域の事、床の間や鎮守の森もまたしかり、また運命の様に自分の力が及ばない流れ、そして他者の人生など、まったく了見の違う世界との融合の場の形成をさしているのだと思います。
そして、そこから思いつくのは「間」のもう一つの大切な機能です。つまり、それは日本文化の特徴であり秘密でもあります。「なる」という事です。将棋で、「歩」は、相手の陣地つまり、他者の領域に入れば、「と」金として、つまり「なる」わけです。
以前、ある感覚的な稽古をしていて、行き詰まっていた時に、師匠にこう言われました。
「今の状態を限界と思うな、「間」だと思いなさい」
私たちは、普段、すぐに自分の能力の限界に突き当たり、四苦八苦しますが、それは、限界では無く、「間」だと思えというのです。つまり、その先は自分が入り込めない領域だとするならば、自分の意志と自我を捨てて、感性が誘導していく場を形成して「間」に入れるという可能性が生じたという事なのです。そうして、その「間」と捉えて、その限界を超えることを「なる」というわけです。つまり、自分の限界は、努力の先にあるのではなく、「間」として、次元的方向性を変える事によって、越えられる可能性を秘めているという事です。
これが、「間」の本当のところの凄さだと思うのです。
芸でいうところの「間」は、ひょっとしたら、この「なる」瞬間をとらえることかもしれません。
日本文化は、この「なる」文化でもあります。古語に名詞が少なく、副詞や形容詞、動詞が多いのは、つまりは、状態や状況には興味がなく、ただ「なる」があるのが人生だから、だと思うからです。
そうやって、「間」というものを見つめ直すと、とっても面白い日本文化が、そこに見えてくると思いますが、いかがでしょうか?