所作塾 No 4
所作塾 No4 2018/9/10
若手がいらしてくださったので、基本的なお話をしました。身体をどう捉えるかというお話です。本来、精神と身体は、それぞれの人生を歩んでいて、混じり合うことがないものです。現代の風潮としては、精神ばかりが、クローズアップされていて、いわば片側だけの世界を生きているのではないでしょうか?ですから、認知することが難しいわけですが、身体の側の世界観も知らないとせっかくの人生が楽しくありませんよという事です。
なぜ、認知が難しいのかと言いますと、それは、精神側で勝手に身体とはこういうものという認識を作ってしまっているからです。実は、精神は、身体のことをまったく理解できていないのに、識別するために勝手に理解しやすいように定義してしまっているようなのです。
そんなこと言われても分からないと、反論しますよね。笑。では、考えてみてください。私たちは、いずれ死にますが、では死んだときに、私たちが身体と認識しているものは、命と同じようにこの世から消えますか?あれ?死骸として残ってしまいました?では、生きている身体と死んでいる身体は、何が違いますか?つまり、私たちが身体と認識しているものに、死んでもなお変わらないものがあるなら、それは生きている身体を捉えているものでは無いのかもしれませんよね?
難しい問題ですが、まずは、そういう事を真面目に考えてみましょうって事ですね。
まあ、そう考えてしまうとなかなか身体は、捉えることが難しいのですが、ステレオタイプに強引に説明しておくならば、精神が知覚と識別の静の世界なら、身体は、感覚と同調の動の世界なのかもしれませんね。生きている身体と死んでいる身体の違いは、例えば、脈、息、気、エネルギー、血、だったりするわけで、それらは、みんなが考えている身体とは、圧倒的に違って、流動的で、とどまることを知らず、枠に収まることも無く、個体であることが難しいしろものなのです。そして、その身体の中で行われていることは、全然物理学が及ばない世界でもあるのですよね。科学的思考を重要視している方は、そうじゃないだろうって言うかもしれませんが、それは、ただのはったりで、風評に近いと思うのですが・・。まあ、言い過ぎですね。ごめんなさい。
詰まるところ、所作塾でやろうとしていることは、この認知も知覚も及ばない世界を感覚と同調を通して、生活や芸術に活かしていこうとしているわけですが、そんな壮大なことは、簡単にできるはずもないのですが、ですから、次に継承するということが大事になってくるんだろうなって思っています。その点においては、若手に期待するわけです。笑。そして、決して交わることのない精神世界と身体世界を、唯一、そのつなぎとめる役割をしているのが、文化なんだなって、事だと仮定すれば、なるほど、いろいろなことが新しく見えてくるといった具合なんですけどね。ダメですか?
私たちは、知覚と識別の精神の世界では、伝えるものを記号化したくなります。例えば、この茶器は緑色ですねと、言いますと、自分の考えている緑色は、他の人が認識している緑色と同じなのか、心配になってくるわけです。そして、その違いは、識別の世界では、許せない間違いに発展するものなのかもしれません。ですから、伝えるという行為のなかに、情報の正確さが求められるのかもしれません。
一方で、感覚ですが、この茶器を持って感覚するわけですが、これを伝える場合、この茶器でも、そこらにある茶器でも、ただ持てばいいわけで、持ったことの無い人は、そんなこと分からなくていいのです。そして、不思議なほど、この得た感覚は共有できるのかもしれません。まったく言語に頼る必要性もありませんので、その即効性と即興性が絶大なのです。この場合、僕が教える訳では無く、この茶器がみんなに教えてくれているわけですから、みなさんもすんなり受け入れられるわけです。そして、他人と受け取り方が違ったらどうしようとか、たぶん問題にならないと思うのですが、いかがでしょうか?そして、じゃあ、この茶器は、私たちに何を教えてくれるのか?まあそれは、持ってみないとわかりませんし、口伝につきということで、授業を受けに来てくださいね。笑
次回は、所作塾 No5 10月22日月曜日19時から、予定しております。