浮かび上がらせて見る

私たちは、浸透していくものを見るときに、見るという行為が動的に扱えているのでは?という前回の話でした。空や、川など、いつまでも眺めていられるのは、見るという行為が連続しているからで、何かを確認して、認識した瞬間に、見る行為は、動詞から名詞と変化し動きは止まるという事です。人の皮膚も、半透明なので、見方によっては動詞になると思います、そういう意味で、日本文化の中に、半透明という仕掛けは、いろいろとあると思います。御簾や、格子、着物のかさね、などなど、それらは視覚的流動性を確保するための知恵だったのかもしれませんね。

現代の人たちが、目の疲労を訴えたり、視力が落ちたりする要因には、視覚に依存した仕事が多いこともあるでしょうが、こうした、動的に見るという事を忘れてきたからなのかもしれません。

私たちは、見るということが受動的で、感覚器官として刺激を受けるだけの存在になりつつあるということです。思えば、見るという行為よりも先に、情報のほうから、目に飛び込んでくることが増えてきましたね。笑

さて、私たちは、有る物体を普通に見てしまうと、見る行為を動的にすることが出来ずに、その輪郭をとらえようとします。これが視線になるわけですが、この輪郭を取ろうとする事が、くせ者で、結局もの事を二次元で捉えようとしてしまうわけです。最近は特に、イメージにしても考えにしても視覚化することが推奨されるわけですが、それらのイラストは皆、二次元で描かれると思うのです。そのためか、美術をされている人は別として、たぶん平面に置き換えて物事を見ているわけです。それは、まるで映画のスクリーンのようです。つまり、そうしたとき、そう見ている自分もスクリーンの様に平たい存在として、自分を捉えていることにもなります。そうした状況では、存在感を出すことが難しくなりますし、懐の深い人間にもなれないわけです。

難しい問題なのですが、実はこの平面化の問題、意外なところに解決のヒントがあったりするんです。それは、つまり日本画の中の余白です。どうでしょうか?

あれ?思いっきり、平面だし、輪郭ばりばりなのでは?と一見そんな風に見えてしまいますが、よく見てください。輪郭は、もうはっきりしているので、視覚的にはもうその輪郭をなぞらないのでは、ないでしょうか?むしろ、漠然と背景を見て、そこから、浮かび上がる様に絵を見ていないでしょうか??実像よりも背景も見て、視覚を動的に保ちながら、テーマを浮かび上がらせてくる。そんなテクニックにも見ることができます。余白をちょうど、空のように見立てて、利用しているわけです。(僕の勝手な解釈ですよ)そして、私たちは、余白に軸を立てたとき安定的に流動性を保ち、また同調感覚を呼び出すことが出来るのです。つまり、感性が動き出すわけです。(あくまでも、個人的な感想です)

こうした手法は、絵画にとどまらず、戯曲の中にもみられます。久保田万太郎の「冬」という戯曲の抜粋です。短すぎて状況が分からないと思いますが、おすが(おみよの旦那の元の彼女、病気をして一緒に住まわせてもらっている)とおみよ(本妻)の女性の探り合いというか、当然ながら、おみよおすがと旦那との現在の関係をどことなく疑っているわけですが、、二人の心の葛藤を描いているシーンですが、、、

おすが (うべなはないやうに)以前はどうでも。・・・いまはこの間もいつたやうにわけが違ひます。・・・(寂しく、半ば自分にいふやうに)そんなにしてもらへるはずがありませんわ・・・
おみよ いゝぢやァありませんか、どうだつて。・・・大切にしようとしまいとわたしたちの勝手だといつたら、姉さん、どうします?
おすが ほんたうをいふと気塞ですの。(強いてわらふ)
およみ 切りがないから止しましせうよ。・・・それよりもお餅(おかちん)でも喰べませう。・・・そのつもりで持ってきましたわ。
おすが それはご馳走さま。
おみよ 何を上がります、お姉さん?
おすが あたしは何でも・・・
おみよ 安倍川を付き合って下さいません?・・・あなたをだしにつかって、ありようは・・・
おすが 結構ですわ、安倍川・・・
おみよ ぢやァ、すぐに。(さういひながら火鉢にかけた鉄瓶をとる)・・・あゝ、いけない。・・・お火がない。・・・
おすが あゝ、わたし、気のつかないことをしましたわね。
おみよ いゝえ、わたしが悪いんですよ。・・・先刻ついで行けばよかったのを横着したもんですから・・・(炭斗をとる)
おすが 暖いとみんな正直で・・・
おみよ ほんたうに。・・・ですけど、どうして今夜はこんなにあったかいんでせう?
おすが 風がすっかりなくなりましたわね。
おみよ 明日あたりふるのかも知れませんわ。

どうして、最後に天気の話でお茶を濁すの?だから、はっきりしない日本人は嫌いだ、と現代の人なら、言うかもしれませんね。短気な演出家ならカットするかもしれない?笑。それとも、明日あたりふるかもしれない、というのが、二人の関係の暗示なのか?まあ、解釈はいろいろですが、僕は、一つに、アングルを変えることが出来ない舞台のひとつの仕掛けとして、ツーショットから、俯瞰に引くための台詞とも考えられるわけです。お客様に、引かせる、つまり、客観的に見てもらう?いや、もっと言えば、劇の余白にお客様を引きずり込む、余白に視点を移した時、そこで始めて、二人の関係性が浮かび上がってきて、お客様がはっとする。どうでしょうか?

陥りやすい間違えとして、俳優は、前半の台詞で、二人の関係性を表現しようとあれこれ考える。そして、最後の台詞は物語と関係ないと考えてしまい流してしまう。ところが、たぶん逆です。前半で、二人は関係性を説明する必要性は、たぶんまったく無い。そして、最後の台詞をどう、生かすによっては、お客様の中にどーんと二人の関係性が、浮かび上がってくるという仕掛けです。ですから、それまで、お客様に二人の関係性は悟られない方が、かえって良いのかもしれない。という勝負の駆け引きという劇的シチュエーションと解釈するのは、いかがでしょうか?もちろん、僕は、演出家でもないし、何か言える立場にありません。ごめんなさい。ただ、そう考えると、お芝居が面白くなりませんか?という提案です。とまあ、それぐらいの話です。笑。つかみどころない、不安定な空間に引きずり込むことで、動的な流動性を保ち、そのことが、お客様の感性を動かし引き出す手段となる、つまり浮かび上がらせて、見るわけです。

日本画における余白は、集中のポイントであり、隠されたものを浮かび上がらせるための仕掛けなのかもしれない。それは、華道における花が織ります空間のように実体以上の存在を、そこに求めているのかもしれないのです。

つづく

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