不作為の美を求めて
この「武士のならひ」のブログは、分かりづらい内容だと思います。その要因の中に、基本的に僕が求めていることが、世間さまの価値観からズレているからかもしれません。とりあえず、現時点で、このサイトの分かっているテーマが、「無いものに基準を置くこと」と「不作為の美を求めること」つまり、意図したことではなく、不図したことを重視することですね。この二つだけで、充分現代の価値観から外れてしまいます。本来は、こうしたことは言わなくて説明できたほうが、良いのでしょうが、なにぶん文才が無く難しいです。笑
それで、今回は、不作為の美について
この言葉自体は、経産省の作成した「世界が驚くニッポン」というコンセプトブックの中にも書かれていますので、問題は無いと思います。ただ、その解釈が・・・違うので、一応掲載しておきます
無作為の美
The beauty of randomness.
日本では、人々が日常で使うごく当たり前のものですら、美しい。その背景には、江戸約300年の平和の時代、上流階級の文化が大衆に浸透した歴史がある。それまで貴族や武士のみが有したいた文化が、平和の中で大衆にも広まった。生活への意識が高まった結果、庶民に向けた「用の美」が生まれたのだ。それは、特権階級だけを対象とした嗜好品とは異なる、日々使う中で磨かれる美しさである。アートや工芸とは区別して、「民藝」と呼ばれる。民藝品は日用品のため、大量生産でき、リーズナブル、かつ高品質。地方色豊かで、ほとんどが作者不詳(匿名)という特徴がある。民藝のつくり手は、芸術的な評価や社会的な地位よりも、「使われる」ことを目指した。だからこそ民藝には、作為的でない、純粋な美が宿っている。(世界が驚くニッポンより)
無作為という日本語の解釈が僕と全然違いますので、話がまた難しくなります。(randomnessいきたりばったり)という翻訳もいいのか分かりませんが、僕には教養がないので、そこのところはわかりません。また、あるもの(ないものでない)に根拠を置いた解説でもあり、「美」が文化人から庶民へ伝わるという解釈(偉い人から凡人へ)も西洋的っぽいかな?
このサイトで、考えています不作為の美は、例えば、僕の知り合いの人が、ある人間国宝の陶芸家に「あなたのような、素晴らしい陶芸家になれば、やはり思い通りの作品が焼き上がってくるのでしょうね」と尋ねましたら、「思い通りの作品が、焼き上がったなら、迷わずに棄てます。それは、駄作に決まっている。思い通りにならないから美しいものが、出来上がるのです」と答えたそうです。じゃあ、やっぱりいきたりばったりで、プロとは言えないのでは?と思ってしまった人がいましたら、この話は、終わりです。笑
「演技のヒント」もこのサイトで、同時に書いていますが、目指すところ同じです。近代では、演出家や監督の思い通りの作品を作ることに躍起になっておりますが、古典では、演出家が表にでてくる事はほとんど無かったと思います。作為的なものに魅力を感じていなかった時代が、あったということでしょうか?(伝ふプロジェクトの日本文化の現代演劇における可能性を考察というコラムも参考にしてくださいお願いいたします。)
演出家や監督さんが、意図した世界を忠実に演じることが、役者の使命だというのが、現代の統一見解だと思います。別にそれに異を唱えるつもりもありませんが、しかし演じる側はなんとなくですが、そういう事を強要されたなって感じると奴隷みたいで疲れるんですよ。爆。(単に歳をとったということか?笑。笑ってる場合ではない、この発言で仕事を無くしますので、内緒です。僕は、いつもポジティブに感謝して演じています)。まあ、普通はそう思わないために、納得するだとか、理解するだとかいう行為が、そこに入るわけです。だからこそ、役者はその役の中でこそ、自己主張するんだとか、まったくそういう話でも、ありませんからね!大丈夫かな?だんだん、心配になってきました。
強引にまとめますね、このサイトで考えている不作為の美とは、僕の場合、演劇が一番身近なので、それで、説明しますと、つまり、例えば演劇において作家も演出家も演者も観客もだれも意図しなかったことが、なぜか共有されそして、それが伝はるものであったとき、そのことがまさに、そのなんだか分からないものが、不作為の美なのではないのかな?と思うのであります。ちょっと夢があって、ミラクルで面白いと思いませんか??これは、間違いなく、いきたりばったりではなく、高等技術の要することで、芸術と言ってもよい行為になると思うのですが、、、どうなんでしょうか?。作為的なもの一生懸命つくっていても、娯楽や産業というレッテルからは、なかなか脱出できないと考えているわけです。もちろん、それで全然良いのですけどね。この話は、お金には全然結びつかないお話ですから!
しかし、この不作為の美を求める技術そのものこそが、日本文化を形作っている根拠になっていると思っている次第です。ごめんなさい。