伝はること

伝える芝居では無く、伝はる芝居を目指す
これは、もう何度か話題にはしてきたのですけど、それでも、この事についての理解が、やはり全然浅かったような気がします。それで、改めてブログに起こしていきます。
宵越しの金は持たぬ は、粋ですが、 宵越しのお金を持てないは、ただの貧乏です。
武士は食わねど高楊枝 は、粋ですが、食事が食えないでは、貧乏か病気ですね。
母音のえかあの違いです。それでいくと
伝える芝居は、無粋で、伝はる芝居が粋ということになりませんか??
それでも、ほとんどの演劇が、伝えることに夢中で、伝はることには、興味を見せません。
これを単に、言葉の綾だと捉えると、この話は、それまでの事ですが、伝はる芝居のほうに主題をおかないと、身体演技にはなりません。
伝えるお芝居
まず、自分から他者に何かを伝えるわけですから、伝えたものは自分からは離れて行った現象ですので、自分の中にそれを知るすべがありませんし、本当に伝わったのか、評価が気になります。
陥りやすい罠としましては、相手に伝えるわけですから、少なくとも自分は伝える内容を理解している必要があると考えがちです。内容を理解して、しっかりと伝える。伝えるために、台詞の滑舌が気になったり、そのパワーも必要なんじゃないかと考えたりします。要するに、科学になりやすいわけです。そして、伝えるために嘘をつくことが、時としてあるとしたら、もう文化にはなりませんね。
伝はるお芝居
まず、伝はるものは、何なのかということが問題になります。それがわかれば、苦労しないって、笑。逆に言えば、無条件で見る側が受け入れてしまう物なので、そう考えれば見えてきそうです。そして、伝える必要がないとなれば、集中の対象は、自分自身に近いものになりますので、結果をフィードバックしやすいのも良いですね。評価も気にしなくて大丈夫なのです。
伝はるものの候補としては、文化、自然、懐かしさ、幽玄、などが無条件で見る側が受け入れてしまう物なので、そこらあたりから考えていくわけですね。つまり、伝はるお芝居は、嘘をつくことが、無意味になり、自分に正直に集中をするわけです、そして、科学では無く文化的なものになっていくというわけです。
伝えるお芝居と、伝はるお芝居では、言葉では、えかはの違いですが、それ以上に、内容が違ってくるし、取り組み方も違うと思うわけです。
結果論ではなく、なにを軸に取り組んでいくのかということになるわけです。