天は二物を与えず

あの人は、綺麗だし歌も上手いし、演技力もあって、しかもお金持ちだ!天は二物を与えないなんて、嘘だ!なんてね。
これは、才能がたくさんあるとか、ないとか、そういう話で使われることが多いと思いますが、そうじゃなくて、

天は、この世に同じものは二ついらないと言っている、というお話ではないですか?
(ネットで調べてみますと、そのように解釈しているところは、ありませんので、あしからず)

つまり、自分とまったく同じような人が、この世にいたら、どちらかは抹消されますよ、というお話です。これは、ちょっと怖いお話ですが、この摂理を知っていると、いろいろと応用が利きます。特に現代は、まったく同じものを大量に生産し、大量に消費する世の中ですので、この感覚が麻痺しているわけです。だから、とても気をつけたほうが良いわけです。どういう事かと言いますと、同じものや同じ動作、同じ考えなどは、たぶん、もれなく生命力を失う方向にあるという事です。

そして、この大量生産からくる均一思想が、おのおのの個別性を無視しはじめます。目が二つあるから同じものであるとか、手も左右あるけど、同じでしょとか、男性の肝臓を女性のそれに移植しても同じでしょとか、肺も二つあるから、一つはいらないんじゃないみたいな、なんかとんでもない考えも生まれてくるわけです。天は二物を与えないわけですから、目が二つあるのは、まったく違うものを見ている可能性があるということを、逆に教えてくれているわけです。だから、気をつけた方が良いのです。

私たちが、大切にしなければならないのは、お金や地位や名誉よりも、生命力であることは、根源的に間違いないと思います。生命が、より強く生命的であるためには、同じものが二つあることは、おかしいわけです。ですから、一つは淘汰されるべきであるわけです。

それだけの事なんですけど、なぜ、これを書いたかと言いますと、、、

話は飛びますが、「身体感覚を取り戻す」という本を読みました。とても、良い本で、参考になるのですが、、作者さまが東大卒だからなのか、やはり身体感覚を知識として、理解しようと解説しているので、結局のところ、精神論になってしまいます。その中でも、僕たちが、普段とても難しく感じているところ、というか、社会的通念として、どっちなの?というところが、あります。抜粋しました。私たちが、何か稽古をするときに必ず、ぶち当たるお話です。

意識と感覚
意識と感覚をあたかも対立するものとして捉える二元論的な考え方があるが、これは技術の実際に即してみると非生産的な二元論である。メルロー・ポンティは「知覚の現象学1」において、知覚と行為がセットになっていることを強調した。周りの世界を知覚するときには、自分の過去現在未来の行動がそこにふくまれている。メルロー・ポンティはタイプを打つ作業を例にあげる。熟練したタイピストにおいては、読むことが即打つことになっている。
言い方は難しいが、メルロー・ポンティが言いたいのは、「習慣の力」である。習慣化することによって、目の前のものの見え方は、これから自分がそれに対してできることをふくみこんだものとしてあらわれる。つまり自分にとって無関係なものとしてではなく、自分の行動が投影された「表情をもったもの」として世界が見えてくるのである。
熟練したタイピストは、タイプを打っている最中に、「意図と遂行とのあいだの合致を感得する」。意図と遂行とのあいだの合致が感得されるとき、世界は身体を通して了解されているのだ。
イチローは、「ボールというのは、バットに当たったときに捉えるものではなく、投手の手からボールが離れた瞬間に捉えるものなんです」という。イチローにとっては、投手の手元のボールまでが自分の空間になっている。

まあ、ここまでは、まだあれですが、身体感覚をとらえて、それをどうするかのが問題ですよね?

動きをみつめる意識は鮮明である必要がある。しかし、求められる動き自体は、一つ一つ意識しなくてもできるようにしておかなければならない。そうでなければタイミングがずれてしまう。
つまり「間に合わない」のである。武道・芸道で求められる最高の動きは、はじめから身についているものではなく、意識的に身につけられるものである。はじめはその動きは不自然なものに感じられる。それが自然な動きに感じられるまで、反復練習が続けられるのである。
中略

反復練習が続けられると、その動きはやがて無意識の領域へ沈殿していき、技として、定着する。これが技の量質転化ということである。

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わかりずらいので、長く引用しましたが、今回問題視するのは、最後のところです。
せっかく身体感覚を引っ張り出して、最後が反復練習では、精神論になります。この反復練習が、とてもくせ者です。反復ということは、「天は二物を与えず」からすれば、必ず生命力を失いますので、つまらないと感じるか飽きるわけです。それを、努力で乗り越えれば、技になると言っているわけですね。昭和のスパルタ教育と同じで、決して悪いとはいいません。もちろん、成果もでるでしょう。ただ、それでは、生命力を失うので、何か代償を払うことになるかもしれません。そして、僕が、思うのは、反復練習に置きかえるのは、全て、勝者や支配者の理論なのかもしれないって、ことです。
つまり、上手くいった成功者側からか、または当事者でもない第三者が、その成功から勝手に因果関係をつけて解説しているだけだとも、受け取れるのです。だから、才能がちょっと少ない、多くの人が、上手くいった成功者のこうしたことの真似をして、結局、身体を壊すか、絶望を味わうかって、事になってしまうかもしれないって話で、この反復練習は、とても考え物です。そして、その反復練習は、成功への手段にすることはあっても、絶対に人生の目的にすることは出来ないわけですよ。変でしょ?

だから、そんなことは、意味ないし、少なくとも日本文化の中から出てきた発想では、ありません!

と、思います。爆

引用もあって文字数がやばいので、ここまでで。でも、とても大事な事なので、皆様のなかで、もう一度よく考えて見るべきことだと思います。失礼しました。

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