表現という言葉に惑わされる
小林秀雄さんの書籍「無私の精神」より、表現について
expressionの表現という単語は、あまりうまい単語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作るように、物を押し潰して中味を出すという意味の言葉だ。もし芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起こって来たときから喧しくなったという事に注意すればexpressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。常に全体から個人を眺めていた時代、表現形式のうちに、個性が一様化されていた時代に、何を表現すべきかが、芸術家めいめいの問題になった筈がない。押し潰して出す中味というものを意識しなかった時代から、自明な客観的形式を破って、動揺する主観を押しだそういう時代に移る。形式の統制の下にあった主観が動き出し、何もかも自分の力が創り出さねばならぬという非常に難しい時代に入るのであります。
さて、これは海外のお話ですが、日本はこのexpressionという単語を文字通り、直訳して、「表現」という言葉にした。つまり、表にあらわすという事です。以後、私たちは、表現とは、表にあらわすこととして解釈してきました。
実は、こうした明治以降に急に出来た観念が、日本の芸術においてとても障害になっていると最近、感じています。
日本人は、圧倒的に内側に意識をもっていく文化でした。刀や鋸も引きますし、柔道の技も引き込みます。弓道ですら、極意は自分の背中を射抜けですからね。身体の内側にある感覚なり、氣なり、空間なりを捉えることを技としてきました。これらの事を古い過去の事として、顧みないのは、文化を捨ているような、もったいない行為だと思うのです。実際問題、これらのことを深く考えたとき、自分から表に出て行ったものは、案外他人の評価にさらされてしまって、技として、考えたとき、とても扱い辛いのでは、ないでしょうか?自分から、離れていったものに対して、どこまで責任が負えるのでしょうか?もうそれは、他者であり、自分とは関係の無いものになっているのでは、ないでしょうか?
もちろん、才能のある人は、そんなことは障害にならないと思いますが、才能がない人のほうが、新しいものを生み出す、素晴らしいチャンスを持っていると思っていますので、あえて問題定義しているわけです。
演劇や、ビジネスなどは、すっかり精神活動化されていて、現代流になってしまって、コーチングのようなことで、だいたい話がついてしまいますので、その中からヒントを探すのは困難な状況でしょう。それはそれとして、素晴らしいことだと思いますが、ここでは視点を変えるためにも、昔の事が、まだ残されている可能性のある古武道から、ヒントを頂きます。
光岡英稔さんの「退歩のすすめ」より
「行為、動き」など外へと向かうベクトルに集注観を向けると「動き」「行為」へ気持ちが引っ張られてしまい、内面的な動源へ集注が向かなくなります。動因と動源がある体の方へ気の集注を向けていくと、感覚が身に生じ、その感覚から動きが生じます。また、いったん動きが行為として収まったら、また改めて自然と集注が感覚・身の方へ向かおうとします。そこで感覚を意識することに集注が向かいがちなのですが、その古いバーチャルな感覚から離れるため、新たに三元分立が生じるよう、気の集注を気の偏在地である体へと向けていきます。そこからさらに内面を洞察し、気と感覚を分け、感覚と動きのベクトルが別れて生じるよう気の集注を体の「なさ」、空洞や虚空間へと集注を向けながら観ていきます。この「なさ」から「ある」ところへ自然と集注が移行する過程の中で、私たちが捉えられる感覚経験とそれに従った自然な動きが生じます
かなり難しい話で、意味不明の人も多いと思いますが、私たち所作塾(演技ラボ)では、ここで書かれています、氣と感覚を分けることと、感情とは何なのかについて、研究しているわけです。それって、どうなの?死ぬまでにどこまでたどり着けるか?でもさ、これこそメソッド演技だと思うけどね。笑。しかし、残念ながら、この事を演技に活かそうと思っているのが、もっとも才能のない僕だけ(だからチャンスという逆説もあり)というのが、かなり不幸な話ではありますが、笑。(賛同者募集中です!)
私たちは、表現という言葉につられて、外側に出て行くベクトルに意識を集中し、それを拡大させることが、良いことだと漠然とした観念にとらわれていないでしょうか?大きな声を出せとか、もっとはっきりと表現しろとか、大げさにやってみろとか、明確なビジョンを持てとか、これらは、すべてボタンの掛け違いをしているんじゃないのだろうか?伝えることが、相手に届かせること、それも自分から、外へ出ていって、その外から相手に届くことだと思っているんじゃないだろうか?これら、すべて「表現」という言葉に概念がすり寄ってしまった結果だと思います。
私たちは、「氣」というとすでに、幽霊でも語るかのように、いかがわしいものして感じているかも知れません。それらは、すべて明治以降、論理的思考のために理解できない物は、排除するという、わからないものはいかがわしい物として、徹底して排除してきたからだと思います。江戸時代までは、普通に「氣」を受け入れていたと思います。だから、病気は氣からとか、清い(氣が活きよい)穢れ(氣が枯れる)とか、そんな言葉は残らなかったでしょう。アメリカだって、氣の存在が怖いからこそ、「氣」という漢字を広めないように、締めてもらうために、「気」という漢字に変えさせたわけですからね。でもね。理解できない物は無かったことにするという、理屈の乱暴さが、僕にしてみれば、科学の信じられないところです。理解できない物があったって、研究する価値は、あるでしょう。普通。どっちがいかがわしいんだ?
僕は、この物理の法則に従わないものに、ロジカルジャンプ(いやアンチロジカル)の可能性を夢見て、楽しんでいるわけです。普通の学力があって、先入観なしに考えれば、物理よりも日本の理のが、全然通っているって、容易にわかると思うのですけどね。なにぶん、学校教育で染みついてしまった考え方の壁は、ずっしりと厚いですね。しかも、それで何の不都合もなく生活できていますからね。