融合を試みる演技
フランス映画に出たときに監督さんから、こんな質問が来ました。
「どうして、日本の俳優は、現場に入る前に役作りをしてくるんだい?」
「そうですね。日本では、現場は常に発表の場であって、試行錯誤するところではないからです」
「なるほど、それは分かった。だがここはフランスだから、現場で一緒に役を作っていきましょう」
「そう相手役は、シルビー・テステューだからね。撮影を楽しんでください」
なるほど、冷静に考えてみれば、相手役は、ドイツの金熊賞の最優秀女優賞を取ったことのある、しかも、フランス、ドイツ、香港、ハリウッドで、ほぼ、主役をはる世界のトップクラスなわけですから、僕が、自分の役柄を勝手に作ってくることは、かなり失礼なことなのかもしれません。日本の常識は、世界の非常識なわけですね。笑
そして、撮影中にあることに気がつきました。モニターを見ていると、日本人が出ているのにどうして、フランス映画っぽいのかなって、疑問だったんですが、そのフランス映画っぽさの中の一つに、色があるなと思いました。例えば、赤色です。映画の中で出てくる赤色は、実際に目で見ると、かなり深い赤色です。クリムゾンレッドというか、臙脂色というのか、不思議な色です。試しに、日本から持っていった、赤色のペンをカメラの前に置いて、モニターで確認してみたら、その色は、なんとも軽々しくて、腑抜けた様に映るのです。こんなに違うんだと、驚愕するぐらいです。なるほど、こういった配色が、フランス映画っぽさを醸し出している、一つの要因なんだろうなと思いました。写真の中で、ゴミ箱に張ってあるシールが日本の赤色に近いのかな?
なるほど、ひょっとしたら、日本人がやってしまう、痛い役作りとは、この日本人が普通に見ている色彩の様に、明らかすぎるキャラクター設定というか、ついついステレオタイプに安易に演じてしまう事なのかもしれない。だから、オーディションで15秒で見切りをつけられてしまう人がいっぱいいたという事なのか?(内緒)だからといって、複雑なら良いのか?というとそういう事じゃなくて、絵で言うならば、塗り絵のように、一つ一つのパートの色が浸食しあわない。はっきりと別れた、そして、おのおの独立した人間関係を展開させてしまう演技。極端な例で言ってしまえば、相手役はいても、いなくても演技は同じであること。(日本の現場では、普通に求められる技術かもしれませんが、、汗)
たぶん、このことを嫌って、最初の質問になるんだなと思いました。そして、僕の演技は、日本から持っていった赤色のペンのように軽々しくて、いたたまれなかったのかもしれない。しかし、日本では、このわかりやすさが、求めらる事が多々あると思います。例えば、ディズニーのキャラクターなどは、いつでもどこでも、どんな状況でもキャラがぶれないことが要求されるわけです。そうしたキャラの安心感は、日本の現場では、重宝されることが多いでしょう。しかし、演技の面白さという点でいけば、圧倒的に融合するフランス流のが、可能であれば楽しいでしょうね。例えば、僕のキャラは、自分で決めるのではなく相手役によって決まるということで、その時々の役という色がどんどん複雑にならなければならない。そして、その色は、シーンごとに違うし、しかも、それが何色なのか言葉に出来ないほど混ざり合うことが、大切な要素として映画を彩っていくのだと思いました。役柄のキャラという全体性は、シーンごとの演技では、補完できないから、別の技術が必要というわけです。ここに演技と役柄という全体性は、別々の技術が必要になるという仮説が、打ち立てられるわけです。こういう技術は、ハリウッドでは、あるのですか?聞いてみたい。
昔、イザベル・ユペールさんが、記者の役作りをどう作っているのか?という質問に答えて、「役は、自分でどう演じるかというよりも、共演者が、私をどう観るかのよって作られていくものじゃない?だって、人って、他人の目によって作られていったりするでしょう?」って、さらっと言っていました。深い。笑
もちろん、現場によって違うと思いますが、と前置きをした上で、海外とくにヨーロッパ系の映画は、役作りは、きっちりした輪郭を作らずに、相手と簡単に融合して、すぐにでも化学反応起こすことを想定して、稽古する必要性が、あるんだなと思いました。塗り絵ではなく、いつまでも乾かない水彩画の様な絵作りが、役作りというわけですかね??そんな役作りってどうやって、演じていくのか?それなことを目指して、このブログをまとめているのですけど。
いわゆる全体性と即興性が、必要になると思いますが、それは、本来、日本人が得意としていた事のはずなのだから、頑張りたいなと思ってます。こればっかりは、世間のニーズに応えていたら、いつまでたってもまとまらないので、ある意味捨て身な部分も必要になるんでしょうね。