識別感覚と同調感覚について
前回の「理解という概念の固定化」の続きのブログです。この問題は、何度か伝ふプロジェクトでも書いていますので、重複していますが、「武士のならひ」で、まとめておきます。
東京フィルムセンターで学生さんたちに演技を教える時も、最初にこの問題を説明させていただいてます。普通に学校教育を受けてきた人なら、五感を磨けとか、五感を働かせよと言えば、たぶん識別感覚のことを指しているのでは、ないでのでしょうか?よく見ろ、よく聞け、よく考えろと言われれば、必ず論理的思考法で臨みますので、識別感覚が発動されるわけです。もっと刺激が欲しいと感じたり、はやく結果を知りたいと思ったり、相手の欠点が目についてしまたっりと、日常おきるこれらの感覚はすべて識別感覚から、生じてきたものです。情報を集めて、それらを識別分類して、良いものを選択して、行動に移すわけです。このように自らの思考により選択をし、実行に移した行動は、その過程のことは、案外どうでも良くなり、その結果だけを先走りして、知りたくなるものです。いわゆるロールプレイゲームをしている時のように、結果だけを求めて、まるでゲームのように人生を早送りしはじめるのです。
つまり、飽きるとか、つまらないとか、何か目的のためにしなければ、といったものは、すべて識別感覚が支配していると言っても過言ではないでしょう。稽古は耐えるものだとか、目的のために我慢するとか、○○のためにこれはしないといけないとか、そう言ってしまうのは、もう識別感覚で稽古をしている証拠だと思うのです。そして、識別感覚で得られるものは、知識であって、それを経験として積み上げることは、かなり困難なわけです。なぜなら識別とは、あくまでも外部からの情報に対して、敵対的関係を前提として、自分の中に取り込むことを拒否するスタンスを持ちながら理解をしようとする行為だからです。ですから当然ながら、一期一会のような体験は起きようがないわけです。
一方、同調は、相手との垣根を無くし、自分の身体を響かせて、一緒に動くことにより理解を図るわけですから、そこで得られたものは、即経験として落とし込むことが出来るわけです。そして、自分の身体と共に感性も動いていきますから、飽きるということがありません。子供が飽きること無く長く遊び続けることができるのは、同調感覚を働かせて、自らの成長を促している生命活動だからです。
これは、けっこう痛い話でして、私たちは、稽古や学習や仕事のといったことをするときに、すぐに感じる流れ作業的な感覚は、もう知識だけの世界に入っているのであって、人間としての成長を止めてしまって時間だけを、ただ流しているだけなのかもしれないからです。心に手を当てれば、そのようなことが日常的にまわりに、あふれているのでは、ないのではないでしょうか?
そうは言いましても、自我を大切にする現代において、同調という言葉に、抵抗を感じる人も少なくないと思います。自分は自分であって、他人から影響なんて受けたくないし、同調したくなるような人もいないと、そう思うかも知れない。その考えの根底には、どこか自分という固体空間は調和が取れていて、外部のものは、すべて自らの調和を乱すものという概念がどこかにあるからだと思います。しかし、その自分らしさの元になる自我というものは、そんなにオリジナルに富んだすばらしいものなのでしょうか?自我という精神は、この世に生まれた時すでに、間違いなく現代社会の影響を受けているわけですし、その心の中に少なからず認めてもらいたいという欲求があるとするならば、それは、間違いなく世間にニーズに応えようとしているわけであって、冷静に考えてみれば、たんに世間体と自己欲求のバランスをとっているだけで、なんら特質すべきものではないのかもしれないのです。自分らしくありたいけど、世間には認められたい?それは、ちょっと矛盾した考えなのです。
そこで、自我という概念を捨てて考えてみるならば、人は、つねに何か不足感や喪失感を抱き、それを原動力に活動しているともいえます。何か物足りない、満たされない何かを求めて、生きているわけです。つまり、精神が考えるような自我という調和された個体という概念は、幻想であり、実のところは、個という固体は、とても不安定であり、何か他者と共に共鳴することにより安定する生命体なのかも知れないのです。物理的に言うならば、人は、ヘリウムのような安定した不活性分子では無く、水素イオンのような、なにかと結びついて、化学反応を起こすことを強烈に望んでいる、不安定で可逆的な生命体なのかもしれないというわけです。
もし、そうだとするならば、人は識別感覚を使って知識を蓄える存在というよりも、同調感覚を駆使して、いろんなものと化学反応を起こしながら、成長していく存在としての姿のが、とても自然であるというわけです。
しかし、明治以降、精神活動を中心とした論理的思考法で生きてきた私たちは、今となっては、どのように同調感覚を駆使して良いのか、分からなくなってしまっているのも、事実であるのかもしれません。ですから、この「武士のならひ」というブログを通して、何らかのヒントが見つかればと思っている次第です。よろしくお願いいたします。
関連ブログ(伝ふプロジェクトから)
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・3×3ラボフューチャーでプレゼン