イマジネーションの落とし穴
ある演劇書にこう書いてあります
必要な感情はすべて、あなたのイマジネーションから生まれる。劇によって与えられた状況を想像することから生まれる、ということです。役を生き、劇の世界に存在するのは、状況をリアリスティックに想像できた時、初めてできることなのです。
つまり、イマジネーションを広げることにより、よりリアリティーある状況を作ろうという事だと思います。
例えば、テーブルの上にコーヒーカップがあるとします。このコーヒーカップをイマジネーションで構築するわけです。より細部にまで、イメージを膨らませて、コーヒーカップを再現する事によって、リアリティーが増すというわけです。そして、そのコーヒーカップを手にして、コーヒーを飲んでみます。味や匂いまで、再現してみましょう。
では、これを実際に試しにやってみてください。そして、コーヒーを飲むところまでは、リアリティーを維持することが、比較的簡単だと思います。次に、コーヒーカップから目を離して、「今日は良い天気だな」てな台詞を言ってから、コーヒーカップに目を戻してみてください。そこに、コーヒーカップはあるでしょうか?今度は、そのコーヒーカップを持って歩いて、違うテーブルに置くことが出来ますか?そのコーヒーカップを持っている間に、他の芝居に集中出来ますか?
たぶん、僕のような中途半端な演劇人だと、コーヒーカップは、綺麗に消えています。ですから、慌ててイマジネーションを再構築しなければ、ならなくなります。コーヒーカップを持って歩く事は出来ても、途中で話しかけないでくださいと、なりがちです。笑
ここからは、演技ラボでやっています。実験です。あえて、コーヒーカップというビジョンを最初から捨てます。その代わりに手の感覚を、コーヒーカップを持ったのと同じように再生してみます。つまり、視覚的にはコーヒーカップは、存在しませんが、手にはコーヒーカップが実感としてある状態を作るわけです。さて、これが出来てしまえば、たぶん台詞を言っても、コーヒーカップは、残っています。芝居をしながら、歩いていって違うテーブルに正確にコーヒーカップを置くことも、案外楽にこなせると思うのですが、いかがでしょうか?
でも、そこにはコーヒーカップが、ないじゃないか?って、ここまで、身体感覚が出来てしまえば、コーヒーカップはあとからイメージすれば、最初にイメージしたコーヒーカップとは、全く質の違うものになって作ることが可能になっているはずです。では、どうしてそんなことがおきるのか?理解したいですか?笑
前回、理解するなと言いましたが、笑。(理解という概念の固定化)その中に、ヒントがあります。それは、最初に作った、イマジネーションは、精神活動なので、イメージが固定化されているわけです。ですから、動かすことが出来ないわけです。この固定化されたイメージを動かすためには、再描写しないといけないわけです。ですから、簡単に消えてしまうわけです。一方、身体感覚は、すでに流動性を確保しているので、容易に動かせる事が出来るというわけです。
最初に識別感覚を使い、イメージしたあとに、動くための身体感覚が発生すると、最初の集中は消去されてしまいますが、最初に身体感覚を発生させて、後からイメージを足すことは、なぜか可能だというわけですが、、いかがでしょうか?笑
では、どうしてもイマジネーションだけにしたいならどうすのか?その方法は、あると思います。それは、イマジネーションがアニメーションのように動いていることです。例えば、コーヒーカップなら、実際はあり得ませんが、コーヒーの水面が、波打っていることを再現するわけです。そうすれば、たぶん消えません、なぜなら流動性があるからです。嘘だと思うのでしたら、一度やってみてください。
もちろん、これらのことは、僕の演技力が、標準以下だから出来ないだけなのかも知れません、それでしたらごめんなさい。このサイトは、あくまでも演技が完成されている人を対象に書いていません、素人の人を対象に書いていますので、ご了承ください。あとは、行き詰まっている人にヒントになればと思って、書き起こしているブログになります。
話が、それましたが、このイマジネーションを動かすことが出来るというのは、実は重要で、この自由に動かせる範囲が、自分の間合いとなるのかもしれないわけです。これは、武士のならひの方の話になっていくわけですが、、、また、いずれ。
役柄を箇条書きしてしまうのも、識別感覚であり、イマジネーションを作ってもすぐに壊れる可能性があるわけです。(役柄における全体性の落とし穴)全体性の話は、まあ少し、違いますが、割と近い話ですね。
また、イマジネーションを作るときに、輪郭をとらえてしますと、視線が泳ぐ事があります。例えば、コーヒーカップのような小さなものならよいですけど、テーブルとかを真面目に捉えようとして、視線が動いてしまうことがありますよ、ということです。この場合、輪郭を捉えるという行為そのものが、二次元の作業であり、精神活動に近いわけです。ですから、これを量と質ということで捉えないと、感性が動きにくくなるわけです。この話は、また視覚について離すときに。ちょっと、分かりづらいお話で、ごめんなさいでした。
ありがとうございました。