理解という概念の固定化
最近では、理解しないと動けないという人が、増えています。ワークショップをするにしても、最初に座学を入れて、まず理解をしてもらってくださいと、言われます。訳も分からずに、動くことが、損したようで嫌なのです。何か動くには、それなりの、ごほうびとしての成果が無いと嫌だし、ちゃんと分かった上で、実習をしたいと思うわけです。しかしそうしたことは、すべて、日本の伝統芸能では、否定されてきたことです。理解はするな、質問もするな、自問自答しろ、というのが、一般の常識だったわけです。実際の理解は遅れてやってくるもので、先に立たないというわけです。
ではなぜ、理解をしてはいけないのか?その仕組みについて、ちょっと考察してみます。私たちは、日々大量に流れる情報をより効率よく処理しないといけません、そのために合理化は必須条件なのかもしれません、またその中に、自分に危害を及ぼすかも知れない情報も含まれますので、識別する能力も求められます。つまり、理解の主要要素に、合理化と識別が含まれるわけです。
まず、識別能力ですが、例えば、知能指数のテストでは、以下のような問題が出されます。
これをいかに早く、識別するかが知能指数というわけです。つまり、理解を「分ける」という作業に置き換えたわけです。この方式で、自分を理解しようとしますと、他人との差違をさがすわけですから、差別がはじまります。そして、他人と比べて自分が持っている能力差を知り、普通の人は、当然のように能力差という壁にあたるこということになるわけです。こうした理解は、異化と差別化を生み出したわけです。
次に合理化ですが、例えば花を見ました
これを椿だと、認識すれば、もうこの花を一生懸命見なくてもよい訳です、つまり合理化されたわけです。悪く言えばレッテルを貼ったわけです。A子さんは、怠け者だとレッテルを貼れば、あとはそのことが基準になります。一生懸命やれば、怠け者のくせにどうしたの?になるし、怠ければ、ほらやっぱり怠け者だ。というわけで、最初のレッテルは、はがれないわけです。こうしたことは、科学的思考法の基礎になるわけですが、例えば1+1=2という、数学上の神話があるわけですが、この神話を維持するために必要なものは、1という数字が恒久的に変化しないことが担保になっているわけです。一人の男と、一人の女がいて、合わせて二人であるということは、この二人が何もしないということが条件であるというわけです。つまり、流動的なるもの、生命的なるものを切り捨てたわけです。論理的思考において、認識とは、定数化であり、変数では無いというわけです。上記の場合、椿は、たぶん枯れたとしても椿という概念は、残っているはずだと思います。
そこで、例えば、ある花を見たときに不意に彼のことを思い出したとします。
彼女は、ここにあるものでは無く、無いものを連想したわけです。こうしたときに感性が動き出すわけです。この場合、この花が何であるかという、認識から外れていきますが、この花に変が生じれば、感性も変化していくと思われます。つまり、花が枯れてしまえば、彼を思い出さないかも知れないわけです。この場合の、花は定数ではなく、変数xであり、感性の誘導体として、認識から外れたのかもしれません。こうした合理化を避けた捉え方をすれば、流動性を確保できるというわけです。
ここまでのことを強引にまとめるならば、要するに、理解とは、認識と識別であるとするならば、それは、差別と異化をうみ、流動性を排除した結果だけの世界というわけです。
さて、伝統芸能においては、知識が何の役にもたたないことは、明々白々であり、修練によって得るものは、知識ではなく、紛れもなく経験でなければならないわけです。その時、先に理解をしてしまっていれば、それは、その人の浅い人生の陳腐な記憶とのつながりを見るだけのことであり、経験という貴重な機会を邪魔するものになるかもしれないというわけです。
ですから、経験に必要なものは、識別という異化ではなく同化感覚であり、結果を急ぐ合理化ではなく、感性が動いた道筋を見極めることなのではと思うのです。つまり、早計にわかったと思うことは、成長の機会を失う、危険な落とし穴の前にたたずんでいる状態なのかもしれないということです。