役作りにおける全体性の落とし穴
劇団とかで、舞台をするときに付帳というものを書いて提出する場合があります。自分の役柄の人物像のイメージを絵で描いたり、衣装のイメージだったり、使いたい小道具などを書くわけですが、まあ演技プランみたいなものですね。
これらの行為は、とてもまっとうな演技のアプローチのようでもあります。実際、誰でもこんな感じに、役を作っていくのだと思います。しかし、この役作りには、ある重大な落とし穴があると思うのですが、いかがでしょうか?
ここから先は、かなり一般論から逸脱していますので、例によって読む読まないの判断をしてください。よろしくお願いいたします。それと、もともと、役作りを自分から遊離して、仮想空間で構築するスタイルの人もこれには、該当しません。ごめんなさい。基本的には、日本文化に基軸をおいた考え方になります。
一般的に、私たちは、演技するときの海路図として、あるイメージを描くわけです。それは、例えばステレオタイプに、正義感のある人とか、声が大きい人とか、女性と話すことが苦手な人とか、とまあ色々ですね。ロミオとジュリエットのジュリエット役ね、と言われれば、かなり既存のイメージもあるわけです。また、物語のシーンについても、おおざっぱにここは、こんなシーンなんだと理解して臨むわけです。これら大きなイメージから、少しづつ細かい役作りを作っていったり、動いてみて調整をしてみたりするわけですが、つまりそれらは、ある全体性の中の局部になるわけです。ある全体性をもとに局部にアプローチするというわけです。このことが大きな、落とし穴になるわけです。
それは、どういうことなのかと言いますと、かなり乱暴な説明をしてしまいますと。例えば、飛ぶという行動があります(人は飛びませんが)。私たちは、飛行機にも鳥にもこの、飛ぶという言葉を使います。しかし、よく見ると、飛行機は、飛ぶというよりも移動している?とも取れるわけです。つまり、局部が動いていないわけです。でも、エンジンは動いていますと言うかもしれませんが。逆に鳥は?その瞬間、瞬間の全体像は違う形をしていることに気づくと思います。つまり、鳥が飛んでいるという姿は、いろいろなイメージの組み合わせで全体が出来ているというわけです。それでは、飛行機と鳥は、どちらが生き物でしょうか?って、バカみたいな、質問をするなと怒られそうですね。ごめんなさい。
つまり全体性を強く作れば、いつものように言われる言葉、「君の演技は固いよね」って事になります。だって、飛行機だから固いに決まってる。だから、その人は真面目に芝居したんですよ、大切なことですよ。いやいや、問題はそういうことではありません、全体と局部という二項対立を作って、その程度を問題にするような、話をしているのではありません、実は全体像は、全くいらないのかもしれない。(もちろん、プランとしての全体像は、あっても良いのかもですが、演技するときには、必要ないのでは?ってことです。)それは、かえって邪魔になるかもしれないという考察をするわけです。(無茶な話だね)
最初に作った全体性は、たぶん鏡に映った自分であったりシーンであったりする、つまり客観的であるわけです。この鏡に映った自分は、固定化(認識による概念の固定化)されており、動くことが出来ません。結局、鏡の中の自分をいったん破棄して、次の自分を再描写しなといけないわけです。ですから、僕のようなダンスの下手な人は、鏡を見ながら踊るのでワンテンポ遅れるわけです(単にどんくさいだけともいう)。そして、次々に追いかける鏡に映った自分の偶像には、当然ながら中身がない、しかるに、不安に駆られた人たちの役作りの、次なる課題として、感情を込めましょうと来るわけです。感情ぐらい入れておかないと、存在の耐えられない軽さにいたたまれなくなるのでしょうか?
ところで、この感情ってものは、込めるものなのですか?感謝の気持ちを込めてとかいう言葉は、いろいろな場所で、よく聞く言葉ですが、この場合の気持ちというものは、例えば人間がおにぎりだとして、お塩ですか?お米ですか?それとも、あとから入れる具ですか?笑
鳥は、その瞬間その瞬間の全体像が違う形をしているといいました。つまり、局部の動きが全体を変えてしまうほど、影響を与えているわけです。そして私たちは、普段、自分のある全体像を維持しようと行動しているわけでは、ありません。私たちを、揺り動かすものは、あくまでもある局部性であるはずです。怒りに全体を動かされたり、悲しみに全体を動かされたり、痛みであったり、好物である食べ物に、はたまた好きな女性に、その瞬間瞬間に現れる、まったく新しい自分が、めまぐるしく変化して、一人の人物像が出来てくるわけです。「まあ!あんな事をする人には、見えませんでした。普段は大人しいひとだったのに」って、事になるのは、その瞬間に出来た全体性が、珍しいものだったというわけです。こうなった時に、そこで感情を込めましょうと言われたら、え?なんで?となるような気がするのですが、どうでしょうか?生きている瞬間瞬間は、いづれ、ありがたきものであり、珍しきものであってほしいわけです。人の全体像は、その時その時の集中の行方の多重構造体であるのでは?ですから、よく知っていれば、知っているほど、その人を箇条書きで、表現することが困難になるわけです。(付帳に書けなくなる)
では、そんな細部に動かされて、どうやって、役作りは成立するのですか?という疑問が生まれるわけですね。全体という役作りから、局部としての役作りへのシフトするわけです。それは、またの機会に、、、??笑
イザペル・ユペールさんが、素晴らしいことをインタビューで答えています。参考になりますよ。ただ、これメモを取った訳でもなく、何日かして記憶で書き起こしてますからね。それでも、これだけの内容を記憶出来ているのは、たぶん通訳が、福崎先生だからですね。もう先生の通訳は、言葉に出した瞬間に文学ですから。
※注意:だから、気持ちを作ってから演技するんですね。なんてことを言っているのでは、決してありませんよ。
正直なところ、僕の考えは、たぶんかなり孤立しているので、仲間がほしいところなんですけどね、自分ひとりでは検証が、出来ない!爆