武士のならひについて
ならひとは
古語辞典で調べますと
1.習慣・慣例
2.世の常・世のさだめ
3.言い伝え・由緒
こんな意味があります。
タイトルの「武士のならひ」と言いますと、どうしても世のさだめみたいな意味になると思いますが、このサイトでは、1番の習慣という意味で、捉えていただければ、嬉しいです。現代は、脳や精神活動が、最上位に考えられている時代です。ポジティブシンキングやあきらめない気持ちとか、やりたいことをする、ありのままで良いなど、すべては精神活動のことです。もちろん、それらは、素晴らしいことですし、効果もあるでしょう。しかし、精神はこれらのことを、常に意識していないとなかなか習慣化されませんし、結構ストレスのたまる行為でもあります。毎日の体調に左右されたり、人間関係が影響したり、それなりのモチベーションも持ち続ける必要もあります。
そこで、このサイトで、再考していきたいポイントが、この問題なのです。
本来、武士のほんとうの強さは、「武士道」という言葉で表現されているような精神論とは関係なく、むしろそうした精神論にまったく依存しない集中観が、どんな状況下においても自己のベストを出すための智恵として、工夫されてきたのではないか?ということです。ですから、「無」とか「無心」というような言葉が、どこからともなく、多く使われているのだと思います。「無」になれとは、つまりは自己の精神をいったん切り離しなさいということだと思うのです。
礼法においてもそうで、まず第一に感謝の気持ちがなければ、礼法になりません。と切り出してしまうのは。とても現代風なのです。その感謝の気持ちは、嫌いな人にも使えますか?ましてや、相手が敵討ちの相手だったらどうでしょうか?そんな無理難題をなんとか解決するために、今度は愛が大切だ、などということになってしまうわけです。何人も等しく、万人を平等に愛せるのなら、、、いや、想像すると、かえって怖い社会になりそうです。そもそも、「愛」というのは煩悩のひとつとして、捉えられていたわけですし、愛があれば、人殺しもできるわけですから。軸にするには、ぶれやすいものですね。
話が、それました。すみません。礼法に感謝の気持ちがまず大切と考えるのは、精神活動が主流となっている現代的な考えで、本来の礼法の気持ちよさは、一切、感情の動きが無い、純粋所作に対するある種の清らかさが、求められていることの本質だと思います。じゃあ、ロボットでも良いじゃ無いか?とお考えの方は、この先このサイトとじっくり付き合っていただけたら、とても嬉しいです。
気持ちがいらないのなら、ロボットでも良いと考えるのは、合理化社会の通常概念だと思います。ただ現状では、人間と見間違える程のロボットがまだありませんので、そうはならないと考えるかもしれません。しかし、技術が進歩したら、、、誰も否定できないと思います。では、どうして感情がいらないならロボットで良いと思ってしまうのか?それは、現代社会が人間が伝える情報を言葉と感情という要素に単純化して、それ以外の要素に、重要性を感じていないからです。見えるもの、感じるもの以外は、あるかないかわからないものだし、複雑になるから、科学は取り扱わない訳です。つまり、ここで問題なのは、感情がいらないのなら、ロボットでいいやと考える、私たちが、すでに科学の進歩以上に、自分たちの思考方法そのものが、コンピューター化して来ている可能性があるということです。これは、まずい事だと思うのです。
合理化というものは、可視化という行為と並行して進歩してきました。そして、見えるものだけを基準として、物事を考えていくことが論理的な思考とされるわけです。見えないものを見える形で、提示する。それが、科学の進歩でもあるわけです。どの企業さんでも、戦略会議をすれば、必ず合理化と可視化ということが、主題として考えられていると思います。
では、そうした合理化と可視化にすることに対して、何が問題なのですか?
それは、合理化社会では文化を作り出すことが出来ないということです。ですから、いくら便利になっても、豊かになった気がしないのは、何か不足に感じてしまうのは、科学の進歩によって得られたものの中に、文化的な背景が無いからなのでは、ないでしょうか?科学的根拠があったとしても、文化的な裏付けが欠如していることが、現代社会の根本的なところにおいて、ストレスがたまる原因なのだと思うのです。
ですから「武士のならひ」は、精神論からの脱却を一つのテーマとしています。なぜなら、精神は見えるものに依存する傾向が、強いからです。見えるものに依存した先にあるものが、合理化社会になるわけですから。つまり精神を制約して、純粋に所作に集中したときに、見えてくるもの、いや感じてくるものが、文化であり、見えていなかった世界なのだと思うのです。見えないものを見えるようにすることが、科学であるなら、見えないものを見えないまま、純粋に扱おうとするのが文化なのだと思うわけです。「武士のならひ」では、こうした見えないものを見えないまま扱う事を習慣化していた、そうした時代に対して考察していけたらと考えています。そうです、こうして文字で、表現していることがすでにパラドックスになるのですが、笑。ジャック・ラカンさんも文字はツールとして真理をかたることは不可能として、本を書きませんでした。ですから、武術の奥伝も、結局のところ口伝で、ということになるのだと思います。科学のしていることは、語ることが不可能な真理を見える形にするために、見えないものを遺棄して単純化することなのです。
現代は、科学の進歩に歯止めをかける法律も倫理も存在していません。人として、日本文化が完全に消滅してしまう前に、手遅れになるまえに、文化としての裏側を知っていてもらえたらと、弱輩ながら、考えている次第です。