仲秋の月を観る

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは~(徒然草)

今年は、月が綺麗に見えましたが、それでも、都会ですと建物が邪魔をして、やっと思いで、見る感じです。ところが、昔の人は、月を直接みるようなことは、あまり風情がないと考えていたのかもしれませんね。

紫式部は、石山寺に参籠し、8月15日(仲秋の月)に、月が琵琶湖に映る様をみて、貴人が十五夜を眺めながら都を恋しがる様子を着想。これが源氏物語須磨巻となり、須磨巻・明石巻から源氏物語が書き始められていったという記述があります。

須磨の秋

月のいとはなやかにさし出でたるに、よいは十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御遊び恋しく

ですから、この月は、直接見ている月ではないわけです。ひょっとしたら、見ていない可能性もあります。

剣術の世界では、水に映った月のことを例え話として、使っています。こうなってくると、昔の日本人は、実態としての月よりも、水に映った月や月影に、月の本質を見いだして風情を味わっているような気がしてきます。

心似水中月 形如鏡上影 意速如水月鏡像
心は水中の月のごとし、形は鏡の上の影のごとし
心すみやかなること、水月鏡像のごとし(新陰流)
*鏡花水月とは、目に見えて手に取ることができないもの
感じ取れても説明ができないもののこと。

京都の銀閣寺は、月を観賞するためにありますが、もちろん、部屋の中からは、月をみることは難しいと思います。そこで、枯山水のように庭に敷き詰められた白い砂にうつる月影をみたわけですね。銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)

そういう意味では

色は匂へど散りぬるを のいろはの一節も解釈がかわります

色とは実在するもの、そして匂うとは、感覚であり、散るとは観覚のこと?そう解釈できなくもないですよね?

武道家の光岡英稔さんのツイッターを引用させてもらうと
「観覚」と「感覚」の違いと関係性について少し触れて行きたい。 これを実際に、実技にて理解して行くには「観性」と「感性」の違いと関係性に踏み込んで行く必要がある。そこには「気」と「力」「意」「志」などを詳細に分けて観て、一つ一つの経験を感覚する行為と関係してくる。

作為は棄てるのではなく更に深く追及し行為化して行く必要がある。 たしかにその作為が無作為になれば母語が身についたが如く無造作に其の行為が行われる。ここまでが武の基礎基本となる。 母語の如く、作為が身につき無作為な行為と化すれば、そこからが本当の武の稽古の始まりである。

とういう記述があります。これは、武道にまつわる話として書かれていますが、日本の身体感覚はすべての分野で同等にあつかえますので、文化におきかえることもできます。つまり、観覚と感覚は、違うということですが、僕は、このことが、いわゆる実体としての月をみるのか、水に映る月をみるのかの違いにつながるだろうと考えるわけです。どちらが、観覚でどちらが感覚なの?という疑問はでますが、多分どちらもありなんだと思いますが、ステレオタイプに考えれば、実体の月は感覚でとらえ、月影は観覚でとらえることになるのかもしれません。

それで、どちらか良いの?って考えるのは、間違いなく愚問で、どちらも必要不可欠な関係性の中に存在しているというわけです。そう考えますと、現代の私たちは、わかりやすさを前面に押し出して、それを科学的だ!考える風潮から、実体しかとらえない習慣が、いつのまにかついてしまい。日本文化の中心的存在だった、影の効用を忘れてしまったわけです。つまり、私たちは、光岡さんのいうところの、基礎基本すら、できていなくて、稽古のまだはじまる以前のレベルで、人生を終えていくのかもしれませんね。

それって、つまらないな~と思うわけです。

 

 

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