鏡に映った自分を捨てること
よくあるジレンマとして、自分らしくありたいけど、人にも認めてもらいたい。というお話がありますね。芸術を目指していたら、誰でも一度は考えることですね。これに対する有効な答えはありません。つまり答えの無いことを考えているわけですね。
人に認めてもらいたいと願うのは、つまりは、普段から自分を客観視しているわけで、言い換えますと、自分もまた他人の人たちと同じような立ち位置で自分の事をみているわけです。ですから、自分が納得する自分は、他人の評価と違うと困るわけです。このことは要するに鏡に映った自分を見て、自分だとしているからです。例えば、自分の笑顔のチェックなどを鏡をみて確かめたりしていますよね。それは他人がみた自分で、そこに自分らしさは最初っから無いのです。第三者からの視点で自分を見ているからです。鏡というのはそういうものですが、そこに映った自分を自分だと勘違いするところから、このジレンマがはじまります。それを警告するかのように、鏡に映った自分は左右が入れ替わっているのですけどね。他人の評価が自分を映し出していると考えてしまうのです。
そもそも自我という言葉の、自を自分だと勘違いしてしまうのですが、自我の自は、自然の自です。つまり自我とは自然と我との関係のことです。鏡に映った自分のことではありません。自然に写しだされた自分なのです。なんだよ、それって、と思うでしょう?笑。でもね、そうやって何だろうって考えてみて下さい。他人の評価って何だったんだろうって思いますよ。
鏡があるから、自分が見えるけど、鏡を使わなければ、自分から自分は見えないじゃないかって、そうなんです、なにも見えないですよ。だから自然を使ってそこに自分を投影してみたりするんですよ。月を見て、綺麗と感じる。それは綺麗と感じている自分を鏡の代わりに月に投影しているわけです。この場合、月が自分になります。そして、月を綺麗と感じている自分がそこにある。というわけです。これだと月から自分を見ているのではなくて、自分から月をみているので、客観視的な視点になりません。無茶な理論だと思うかも知れませんが、こうすると自分は何にでもなれるんですよ。鏡さえ無ければ。無限の可能性を自分の中に見いだせるわけです。そして、こんなことをしていると、たぶん他人の評価がだんだん気にならなくなると思います。自然に身を置いていれば、他人を気にしなくなりますし、そもそも評価って意味あるのか?って、気持ちも変わってくると思います。試しにこんなことから、初めて見ませんか?