感性による演劇の可能性について
基本的に演技の方法論として一般的なものは、精神で肉体をコントロールしようとする方法たど思います。
演技ラボでは、たぶん世の中では、初めての試みになると思いますが、「身体」つまりは、感性による演技の方法を探ってみようと考えています。科学的思考では、決してたどり着くことができない事、科学では描けない夢を目指しています。ですから、考え方としては、既存概念とは、かけ離れている事もありますので、説明が難しくなります。このサイト以外の知識、または、学校や常識的な学習において得た知識とは、一旦切り離して、関連して考えない事をお勧めします。また、言葉で説明するという事は、その時点で、すなわち精神の領域になりますので、感性の世界ではなくなります、ですから、なるべく言葉に置き換えないことが求められます。古来、日本の芸能に口伝が多いのは、そのためなのかもしれません。基本的には、非公開の内容ですので、よろしくお願いいたします。
内容の性質上、誤解されることも多いので、この関連記事の無断転載を禁止するのと、あくまでも覚え書きとしての内容であることを承知ください。
*このサイトに不向きな方
・意志の力で、人生は切り開けると思っている方
・身体は、生きていくための道具だと思っている方
・科学的根拠がないことを信じられない方
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*感性を誘導するために
感性を引き出すためには、まず身体から精神を一度、引き剥がす事が重要になります。
こうした所作を型と呼ぶこともあります。型は意志によって身体を動かすことを制限し、精神活動を身体から切り離して、互いに自由を確保するための行為になります。意のままに動きたい、現代人からすると、窮屈で難しいのですが、それだけに学習が必須の内容になります。ちなみに、世にいう瞑想は、身体を消して、精神を自由にします。ここでは、身体を失っては感性が、消えてしまいますので、身体の自由を確保することを目的にしているのが、要するに、型という事になります、しかし、不思議と感性が動けば、精神も自由になれるというのが、正直なところです。
*不定位の身体に寄り添う
私たちは、一般的に身体を個体だと把握しています。そうした概念にしておく方のが、精神がコントロールしやすいからです。はっきりしたことを組み立てていくのが科学的思考ですから、不定位分子は嫌われるわけです。こうしたことから、身体を個体として把握するわけですが、その概念は、静止しているため、生きてる身体と死んでいる身体との区別が難しくなります。生きている事は、つまりは、息、脈、水、気、影であったりと流れていく不定位性の中にこそ、存在しているとも言えます。ですから、感性を導くためには、静止した個体としての身体から、離れて、不定位性の中に寄り添うことが大切になってくると思われます。
*同調する人間関係
人は、共存することで、生きながらえてきました。演劇をするにおいても、一座建立を目指すなら、他者との関わりこそが、目的でもあるわけです。競演ではなく、共演するために、私たちは、相手にどう影響を受けて、またどう影響を与えているのか、とても技術が問われる分野になります。こうした事を精神論で、片付けてしまうとこのサイトの意味が、まったくなくなりますし、演者としての面白さが半減します。また、こうした自他問題は、とても大切なのですが、同時に他人に対して操作願望が、生じやすい分野でもあります。そうした観点から、多くの武術などのでは、奥伝として、思想的に未熟な人には、禁じ手として教えていない技の内容も含まれているのも事実なわけです。大切であり、かつ思想も伴わないといけない分野なのかもしれません。
*実際の演劇に関する事について
身体で起きた感性をどのように活かしていくのか、そして、伝へるとは、どういうことなのか、伝えるものと伝えないものは、どうするのか?などについて、考えて、できれば実験していきたいところです。
「秘すれば花」と言った世阿弥は、どんなことをこの言葉に隠したのか、何を暗示しているのか、探っていく事です。
これらのことは、あまりにも大きな話で、とてもまとまるとは思えないし、まとめる必要もないことなのかもしれないのです。ただ、そうした道しるべがあれば、やがて道として、探求して行く人もいるのかもしれません。
*参考ブログ、日本文化の現代演劇における可能性を考察(伝ふプロジェクト)