歩く

歩くという行為ほど、現代と昔で、考え方が変わってしまった事は無いと思います。みなさんは、健康のためとか、スタイルのためとか、言ってすっかり西洋風になりました。そもそも、それが「正しい歩き方」と銘打ってしまうほど、確信に満ちて、お勧めしている状況です。いったい誰が、正しいという判断を下したんだ?ネットで検索すれば、間違いなく西洋風の歩き方しか出てこないと思います。

その一方で、ナンバ歩きとか、摺り足とかいう言葉も聞いたことがあると思います。それらは、今では、儀式や芸能など、または古武術などの限られた、場面での歩き方と認識されているのだと思います。

従って、昔の歩き方を顧みることが無くなってしまったのですが、逆に言えばこの事が、とても重要なポイントでもあるわけです。

有名な劇作家であります別役実さんが、その著書のなかで、歩くとは、止まると倒れるの中間だと書いてましたが、つまりは、歩くとは、ごく当たり前の事でありながら、その実態はとらえどころが、とても難しい問題なのかもしれません。だって、ネットで出てるような正しい歩き方している人って、実際には違和感があるでしょう?ファッションショーならまだしも、役柄としては、かなり意味を持ってしまいますよね?そして、街に出て見れば、一目瞭然ですが、この自然界のなかで、人間ほど歩く姿が、不揃いで汚い動物は、他にいないと気づかされるでしょう。猫にも、笑われそうです。

そんなこんなで、賛否両論は、有識者に任せておいて、ここでは、ポイントとして、気になるところだけ記述しておきます

*ナンバ歩きは、後ろにさがりやすい
私たちは、普段、手と逆の足が出て、歩いたほうが自然に感じるようになってきました。ナンバ歩きをしてみると、かえってぎこちないものです。ところが、前に向かって歩いていて、突然、そこから下がってみて!と言われた瞬間に、手足は、あれ?どうやって歩いていたっけ?となったりするわけです。これが、日本人の弱点ですが、つまり、下がるという行為の場合、圧倒的にナンバ歩きは、自然な動きになります。
下がるという行為は、日本文化らしい動きです。殺陣でも、相手の剣を避ける場合、下がる方がとても楽だし、反撃しやいわけです。神社やお寺なのどで、儀式などは、下がることがたくさんあるわけです。
そして、下がるという行為は、とても身体が整うことであるわけです。

筋肉をなるべく使わないように、身体をひねらない。いわゆる普通の歩き方は、身体をねじって筋力を発動します。ですから、歩いているという実感があり、達成感や充実感が味わえますが、身体の感覚はそれに伴って麻痺してくるわけです。

 

 

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命題

Je sens, donc je suis.
我感じる、故に我有り

デカルトの我思う故に我有りの命題を日本風になおしました。日本文化の原点です。

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補足メモ

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