学校公演の功罪?について

写真は、東京放送芸術映画&俳優専門学校さまからお借りしています。

この学校で、上演される演劇は、卒業、進級、中間公演を含めて、すべて全くもって素晴らしいと思う。これは、とても痛い話ですが、プロといえども、お金を取って見せているお芝居は、勝てないかもしれない、例えそれが、劇団四季の本公演であったとしても、その地位は怪しいと思う。それは、言い過ぎだと言うかもしれません、でもそのことを肌で感じるのは、役者のそれぞれ感性であって、そう感じないのなら、別に問題はありません。

こう話を切り出すと誤解するかもしれませんが、まずは、一般的にお金を払って観劇する人のポイントを上げて見ましょうか。
・娯楽性・スペクタクル性・劇場の雰囲気・劇場の立地条件・椅子の座り心地・着飾った観客たち・美味しい食事があるか?・有名人が生で見られる・話題性がある旬な作品か?・有識者が評価しているか?。とステレオタイプですが、こんなことが問題だったりして、それらが顧客の満足度を上げているのでは?もちろん、小劇場では、違いますね。でも、小劇場では、ほぼ友達が関与していますから、見方が変わるのは当たり前ですが、かといって全く知らない劇団の芝居を見にいくと、だいたいとっても寂しい気持ちになりがちです。まあ、それは今回掘り下げる内容では、ないので、まあ、いいや。

詰まるところ、観劇という行為が精神的満足を満たすためにあるならば、プロと言われる人たちの芝居が、優位だと思います。でも、劇的なる物を求めて行くならば、話は違ってくるかも?というお話です。そして、そのことは俳優が、一番身近にいて、感じているはずだと思うのですが、いかがでしょうか?もうあれですから、乱暴に分かりやすく言ってしまうと、プロの人は、演劇が、知らないうちに稼ぐための手段になってしまっている可能性があり、学生さんたちが取り組んでいる演劇は、生活そのもので、それが目的であるわけです。そんな簡単な話じゃないですけどね。

そんなこと当たり前だろうって、切り捨てると、せっかくのヒントが台無しです。笑。

学生時代というのは、演劇をしているか、バイトしているかだけで、ほぼ、頭の中は演劇のこと、公演となれば、3ヶ月ぐらいは、一つの作品だけに集中する。演技だけではなく、小道具から、衣装やチラシまで、とにかく全力なのです。共演者は、嫌な奴も、仲の良い奴も合宿状態のまさに、同じ釜の飯を食う感じの仲間同士になるわけです。そして、たった三日間ぐらいで、燃え尽きる。出演者は、歴史の目撃者となってくれた友人や、協力してくれた両親に心から感謝する。観客は、こんな贅沢な時間は、ほかにないだろう、そんな素晴らしい瞬間に一緒に居合わすことが出来たのだから。生徒達は、飛躍的に成長し、また演劇の素晴らしさを実感したことだと思う。かけがえのない素晴らしい体験をしたと思う。

ところで、じゃあ、なぜ功罪なのか?つまり、この場合、罪とは何か?それは、学生で無くなった瞬間にわかりますね。夢から醒めて、現実の世界が広がります。有名人にならない限り、一日中演劇の事をしている場合ではありません。生きていくために働かないといけない。そして、バイトと言ってもアメリカ人の半分のバイト代しか貰えない日本人は、生きていくために働く時間が圧倒的に多いし、勤勉な日本では、とことんこき使われるので、疲れ切ってしまいます。それでも、頑張って芝居を打とうと仲間を集めて、劇場で芝居をしてみても、食っていけるわけではありません。そして、学生時代ほど芝居に打ち込める環境がないことに気づく事でしょう。小劇場では、いくら満員にしても、お芝居に費やした時間を保障するほどの利益を上げることは不可能です。つまり、稽古時間を減らす?劇場を大きくしてお客を入れるだけの人気をあげる?アイドルを使う?ワークショップして資金を集める?誰かが、スターになってくれるのを待つ?

これらの問題を合理的に解決しようとして、演劇はただの手段に変容していくわけですね。そして、思うんです。学生時代に味わったあの感動は、もう得られないのだろうか?いや、きっとあるはずだと??しかし、現実には、そんなことは、無いと思った方が正解です。現代のように高度に、経済が成長した環境のなかでは、時間をかけるということが、最大の罪であり、そうした理論が、また文化を根本から壊していく社会構造を構築してしまっているからです。

一方、演劇では無く、映画やテレビに進んだ人は、どうなるか?これまた、時間との争いですね。まず、役作りですが、三カ月ぐらいかけていた役作りを、日本の現場では、せいぜい一週間で作ることが必要になります。よほど、しっかりした制作でないかぎり、本読み、稽古、場当たりなどは、無いと思っていた方が、よいでしょう。おはようございます。はじめまして、では、カメラ回しますから、リハ本番で~。なんて事もあります。

こうした現場に入ると、何か物足りない気になるかもしれない。それはそうでしょう。三カ月も稽古して一つの役を作り上げていたのに、初見で、いきなり本番ですからね。そして、NGを出さないことが、絶対条件のようなこの世界では、基本ワンテークですから、台本もらって、一回だけ芝居して、はいその役とはおさらばなのです。つまり、このワンテークに学校時代での三カ月を詰め込む必要があるわけですが、そういう技術は、たぶん教わってないと思いますが、つまり、そういう即効性と即興性が、要求されます。

僕は、みなさんは、もちろん素晴らしいと思う。ただ、演劇は消え去るもので、何も残らない。だからこそ、その美しい思いも残さない方が、いいのかも。少なくとも素晴らしい体験は、体験として、それをなぞるような事は、してはいけないし、引きずっていてはいけない。全く新しい、別の意味での素晴らしい体験を探すことをお勧めする。そうしないと、挫折する恐れがある。そうしないと、なかなか理想の現場は無いのかもしれない。だから、私たちは、短いスパンでケリをつける習慣と瞬発力と即興性をつける必要性があるのかもしれないのです。頑張ってください。才能と可能性の塊のみなさま!!

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