傾奇なるもの

傾奇(かぶきとも読む)とは、歌舞伎の語源でもあるわけですが、傾いて不安定であることなのですが、現代語訳では、派手なこと、奇をねらった目立つこと、一般から外れること、みたいな訳になると思います、つまり、傾いているのは、中心から外れたことを意味して、いつの間にか、大事な要素である不安定であることが、忘れられてきています。ですから、歌舞伎を見たらわかりますが、機を狙った感はあるものの、実に安定して、国からの保護もあり、どっぷり一般化しているわけですから、本来の傾奇の意味からは、外れてきたのかもしれませんね。(内緒)

数奇が、滅多に無い希少なめぐりあわせで、無常が、消えて行く儚いもので、が、可逆的に何かに変化しうる事で、そういう風に捉えるならば、傾奇は、傾いて不安定であり、これらのすべてが流動性を目指しているのは、想像がつくところだと思います。つまり、日本文化は、見た目ネガティブなのに、その実は無茶苦茶ポジティブだということの根本が、この流動性を基軸にしているからです。日本文化の場合、安定、平安、静は即、死を意味するわけです。

私たちは、どうしても、調和とか平均とかそういったものに、気を取られてしまいがちです。ちゃんとしなければ、と思えば、どこか、フラットで、自然体なんて言葉につられて、調和がとれた自分を作ろうと考えてしまいます。例えば、弓道など、その型は美しいですね。とても均整がとれていて、女性がとても輝いて見えます。中心線が、はっきりと見て取れるような、そんな安心感すら感じてしまいます。

さて、こうして形を整えて、そうした均整のとれた状態で、集中は出来るのでしょうか?こうした美しさは、精神集中するにはとても良いのですが、果たして、身体集中に向いているのか?ということです。

この絵は、北斎漫画ですが、この型は、現在の弓道とは、すでに違いますよね。もちろん、どういう場面を描いたのかは、分かりませんが、感じとしては、これから射る体制に入っているようにも見えます。

私たちは、習慣として、まず姿勢を正しなさい、そして集中しなさいと、子供の頃から、言われ続けてきましたので、それが普通だと思い込んでいると思います。座禅も姿勢を気にしますし、身体のポジション的な事を、スポーツもうるさく言うと思います。これは、やはり西洋思想からくるシンメトリーの美を意識しているからだと思うわけです。そして、その調和は、精神集中するにはとても良い環境であるけれども、身体集中へ移動するには、一旦崩さないといけなくなるわけです。

僕は、思うのですが、よく勉強やるぞって、集中するんだ!と息巻いて、本を開いた途端に、眠くなる。こういう事を、つまりそんな不毛な集中を、普段やってしまっているんじゃないかってね?もちろん、勉強ができない言い訳ですけどね。笑。

まあ、勉強が精神集中なのか、身体集中なのかは、分かりませんが、少なくとも、生活の中では、身体集中をしないといけないわけです。そのとき、実は、傾いてしまった身体の状態のが、動き安いって事なんじゃ無いのかなって事です。身体が安定していれば、その反動で精神が動き出して、ストレスを感じるが、身体が傾いて不安定ならば、身体が頑張る反面、精神は解放されて、楽になるわけです。

ですから、弓を引くときに、うんと傾いてしまえば、身体を弓のように使わないと転んでしまうから、拮抗を作ろうとする、そうした身体集中が、精神を解放し、あたかも無になったような、考えなくてもいい時間を作り始めるってわけですが、、ダメですか?笑

もちろん、こんなことは全スポーツを敵にまわすような事ですから、与太話に決まってますが、だったら、こうしてみましょう。調和の取れた、美しいフォームは、そう、みんなの目に見えている姿が幽玄だということにして、影法師としての実態の自分(つまり、みんなからは見えていないのに、実はリアルな自分)は、ゆがんでいれば良いんじゃ無い??そうそう、影としての自分ですよ。というわけで、こんな馬鹿らしい話は、実際に自分で試してみないと、読んでても、アホらしいですよね。すみません。是非、お遊びと思って、お試しください。いや、試すわけないか~。笑

とりあえず、僕なりの傾奇に関する覚え書きでした。

 

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