俯瞰から鳥瞰へ、身体から離れていく心

技術の進歩によって、私たちは、映画の中においても気軽に鳥瞰できる様になりました。昔は、俯瞰できれば良いほうで、鳥瞰となれば、かなり予算のかかることでしたが、今ではドローンを使えば、かなり気楽に好きなアングルが撮れるようになりました。また、鳥瞰ばかりではなく、アニメの世界でしか描かれなかったようなアングルですら、不可能ではなくなってきたようです。そう、私たちの心は、撮影技術の向上と共に、自由にどこまでも飛んでいけるようになりました。海底のそこから宇宙まで、一瞬にして移動し、いかなる角度からも見ることが可能なのです。まさに夢の様な世界の中に、私たちは生きていて、楽しむことができるのです。

ところが、現実は、そうでもない事も私たちは、知っています。この場合、私たちを現実に引き戻しているのは、私たちの身体であることは、間違いありません。例えば、心はいつでも好きな人のところへ飛んで行くことが出来たとしても、身体は、その心とは別行動をしているわけです。つまり、この制御機能?があるお陰で、私たちは生命体として維持され、存在していられるのかもしれないのです。そもそも、文化とは、この心と身体との交流を図り、両者をつなぎとめる行為として生み出されてきたものです。しかし、最近では恐ろしいことに近代科学が、この制御機能にメスを入れようとしているのかもしれません。甲殻機動隊(ゴーストインザシェル)という映画は、そのような近未来の一つの例を描いているのですが、この映画の中では、まだ人は人として制御されている様に描かれているのですけど、実際はどうなるのかは、未知の世界です。

先程、夢の様な世界の中だと書きましたが、実は、実際の夢は、自身の体構造を越える夢を見ることが出来ません。つまり、実際の夢は精神の覚醒から逃れて、自由になった身体が見てるのかもしれないのですね??(余談でした)

私はここまで、不用意に心という言葉を使ってきましたが、心と精神は、まったく別物ですね。そして、私たちのことをイニシアティブを持ってどんどん加速しながら、進んでいるのは、心では無くて、精神です。心ある判断よりも、システム上、経済上、立場上、しょうが無いので、そう判断する、ということが重要視さるわけで、それらは精神のする仕事です。そして現在、めざましい進歩と共にこの世の中の中枢になろうとしている人工知能は、けっして人工知性になることはありません。当然、人工知性を作る事も出来ないでしょう。それは、なぜか?簡単ですね、身体が無いからです。

心が、身体からの離脱を完成して、精神(しかも、崇高でない、欲望のかたまり?ありのままで、良いなんて言ってる精神)が独裁をはじめたら、どうなるのでしょうか?身体は、すでにレジスタンス化して暴走を始めているのかもしれません。私たちは、身体からの情報を失い、制御できずに暴走を始めているのかもしない?熱中症、過度の虐待、無差別殺人、引きこもり、過労死、急性腸炎、などなどなど、精神はいつも適当な理由をつけて原因を見つけようと体裁を作ってみせるけど、本当の原因は、身体からの情報を受け取れず、精神が身体を見失ってしまったからなのかもしれないですよね?

私たちの精神は、心から離れ、身体から離れて、その行き着くところは、自由な楽園ではなく、結局のところ過度な不満のたまる場所でしかないのです。なぜなら、心の充足は、身体を伴うことが、必須だからです。いくら人を愛しても、満たされないという時は、身体の充足を見失っているからです。いくら、お金や名誉や地位があっても、満たされないのは、身体の充足を見失ったからです。いくら、演技を極めても、そこに生きているように見えないのは、身体の充足を知らないからです。そして、この身体の充足を、肉体的欲求だと考えているのなら、その解決は一生、無理です。そのレッテルは、精神がねつ造した、風評被害だからです。我唯足知とは、身体の充足のことを言っているのかもしれませんよ。笑

古代から、脈々と、粛々と、そして淡々と受け継いで継承しなければ、ならない文化とは、実のところ、この精神と身体の接点を見いだし、心を作るための知恵であり、技術であるわけです。決して、女や子供が、楽しむ振りをして、お金儲けの道具として、利用されるための物に成り下がるものでは、ないのだと思います。好き(女子供)ではなく、数奇(数奇な運命)であり、数寄(珍しいめぐりあわせ)であり、そのこころは、透き(無)とおっているものだと、したわけです。文化とは、人生を通して、「道」として極めなければならないほどの、生きるか死ぬかを問いてきた、心と身体の真剣勝負のたまものである訳で、そのことをすっかり忘れて、経済理論だけで、文化を残しましょうと、お金で解決しようとするならば、もうすでに、文化は根本的に滅亡している。そして、文化を失って、せいぜい鳥瞰を楽しんでいればいい、ただ、着地する場所は、もうこの地上には残されて無いかも知れないですけど。

世の中の人たちから、馬鹿にされまくっている、生産性のない?文化の話になってしまった。笑。大きく、ごめんなさい。

 

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