未知へ踏み出すためのお作法

教育の根本的なお話として、分かっていることをただ解説して教えているだけになっていないだろうか?

子供達が、わくわくと興味を持つものは、未知の世界のことであり。わかりきった既知のことをだらだらと解説されても、つまらない。だから学習意欲が湧いてこない、そこで、しょうが無いから、競争とか評価とかいう争いの中に自分を押し込んで、無理矢理やる気をおこして、切磋琢磨する。このような仕組みの中で、何を身につけようとするのだろうか?たぶん、知識は増えても、知性は磨かれない。そして、その頼みの知能ってやつは、どうやらコンピューターのが優れているらしい。

近代は、間違いなく西欧の影響下にあるわけですが、宗教の話を持ち出せば、きっと怒る人もいると思いますが、キリスト教では、宣教師さんが聖書についての解釈を教えてくれるようですが、古代中世のユダヤ教の聖職者たちは、タルムードを解釈して教えては、いなかったようです。この事はとても、ヒントになりますし面白いので、興味のある方は、抜粋してありますので、読んでみてください。死者と他者、内田樹

つまり教育とは、本来お作法を教える事ではないのかという仮説が、出来るわけです。いかにして、自分の人生に向き合うのか?そして他者との関わりをどう持つのか?そういった問題に、取り組むための答えがあるのではなく、問題と向き合うためのお作法が、あるということです。

既知の事を、どんな体裁をつけて教わっても、未知の事には対応できないわけで、せいぜい、勝手に何かを想定するか、記憶から照らし合わせるかしか無いわけで、最後は、感性を眠らせて鈍感になるか、すっかりポジティブになるか、とっても馬鹿になるかしか、堂々としていられないのかもしれません。しかし、現代の人たちは、もう既知のことしか教わらない教育が、骨の髄まで浸透していますので、逆に開き直ってきています。

理解してなければ、動けませんから、最初に教えてください。それをすると、どんなメリットがあるんですか?それをするとどんな、発見があるんですか?何が、他と比べて新しいんですか?どれくらいで、習得出来るんですか?つまるところ5W1Hか??

教育に限らず、ビジネスにおいてもそうですね。どれだけ未来(未知)のことを視覚化して(既知)しめすことが出来るのか?どれだけの利益がのぞめるのか?何が、独自性なのか?何が、新しいのか?でも、まあこれは、経済の事ですから、しょうが無いですよね。そういう消費者のニーズに応える必要性がありますからね。

ただ、問題は、みんな世の中が既知の事で埋め尽くされて、面白くなくなってしまったってことです。だから、今度は、さらなる刺激を求める欲求が起きてくるわけです。例えば、少子化が問題視されますが、異性というのは、本来、一番身近にある未知との遭遇なのですが、特に僕の若いころは、全く情報もなく、どうやって子供が出来るかも、想像すら出来ない時代でした。これは、二人で乗り越えないといけない、未知への共同作業であります。何しろ、何を話して良いのかも、どう接して良いのかも、まったく理解できないのですから、、笑。ところが、今はどうでしょう?いろんな、情報がそこら中にあふれていて、何でもステレオタイプに知ってる気になれる。つまり、異性はもう未知では無く、既知の生物として、興味の対象から外れてしまったのかもしれません。そこにあるのは、未知との出会いでは無く、ただ欲求を満たすためのサービス品としての異性の存在になってしまったのかもしれません(暴言ですからね)。ですから、お金のない人にしてみたら、面倒なんだと思います、そんな異性とつきあうのは、だって結果が見えてますから。メリットがないと判断しますでしょう。

異性に限らず、旅行にしろ、何にしろ、既知の事として、疑似体験が進んでいます。それが、とても良いことだという社会的価値観の中にあると思います。その一方で、本当の経験や体験が、当然のように薄っぺらいものに変化して行きます。既知とのすり合わせという作業が、経験だと思っている人もいるぐらいです。それは、現象として現代の人の精神が、未知との出会いを避けていることからもうかがえます。例えば、接触拒否が増えていることも、こうした傾向なのかもしれません。(人間が人間を信用出来なくなる日)知っているもので埋め尽くして、安心したいと思っている反面、知っているものだらけで、つまらないというストレスを抱え、刺激を求めているわけです。笑、でも知らないことは、出来ない。では、どうして、現代の人は、未知は嫌なのですか?それは、間違いなく、いままで全然、未知との一期一会に対するお作法を習ってこなかったからだと思います。結局、いい歳して、どうして良いのか分からないとうことが起きてしまうわけです。そりゃ、引きこもりだって、自然な反応でしょう??

初めての舞台、立てばおどおどします、未知の世界だから、いきなり刀で戦えと言われれば、腰が引けます、未知の事だから、でも、現在を生き抜くということは、一瞬一瞬が、こうした未知の事としての連続で生きていくという事では、ないでしょうか?目標を定め、決まったレールの上を、間違いなく生き抜くことが、是とされる今日ですが、そうやって突き進める人は、たぶん、ごくわずかです。ほとんどの人が、レールから、外れて寄り道をします。つまり、ほんらい自由なんです人生は。そうした人間らしい人が、既知のレール上のことしか対処出来ないのでは、困るでしょう。いや、むしろ、レールなんかくそ食らえって、思っていたのが、明治以前の日本人であり、日本文化なんだと思うわけです。

そして、いいですか?この未知との出会いのお作法とは、実は、日本の所作の中に隠されているわけです。

動くことで、流動性(無常観)の中で文化を形成してきた日本文化にとって、所作とは、紛れもない未知との出会いの為のお作法であるわけです。動きの一つ一つが、未知の場に遭遇したときに対処するための最善の動きの集大成であるわけです。未知の場に、堂々として存在していられるのは、その所作の修練のたまものなわけで、その姿を見て、優劣の決着がつくほど磨かれていたわけです。所作と聞いて、どうせ古典的な日本人の動きだろ?とか、着物を着た女性がやるマナー講座ぐらいにしか考えていない人がいらっしゃいましたら、その人たちは、今回の人生の中では、残念ながら、決して日本文化に触れることはありません。(かなり暴言だけど真実でもあると思う)ご苦労さまでした。こうして、また読者が減ったような気がする。爆

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