コツを掴む

コツを掴むのコツは、「骨」という漢字が当たりますが、意味としては、本質をつかむという意味と、要領をつかんで楽をするといった意味もあります。後者の意味ですと、なんかずるい人みたいな感じですが、楽するためにコツを掴んだのではなく、コツを掴んだから楽になったんですよ。笑

それでも、この言葉は、このまま本当に文字通りの意味で良いと思います。骨を使う訳です。物事の本質とは、精神活動ではなく身体活動ですから、そのことを感覚するためには骨を使わないといけないわけです。なぜなら、筋肉を使う動きというのは、意思を使う精神活動になりやすいからです。そして、筋肉を使う動きは、感覚が掴みにくくなり感性が鈍るわけです。

時代劇で、武将がお酒を飲むときに肘を大きく張って飲みますが、僕は最初、その行為を威張っているからなのかと思っていました。肘をはるなんて、お行儀が悪いと思ったわけですが、それは近代の価値観なんでしょうね(せまい住宅事情もありますから)。それでもたぶん、江戸時代は、みんな肘を張って酒を飲んでいたと思う。なぜなら、筋肉を使わないようにすると、どうしもそういう形になります。みなさんも、試してみてください。携帯電話でも何でも良いですから、筋肉を使わないで、それを口まで運んでみようとしてみてください。間違いなく肘から、動き出します。

こうして、骨を使っていますと、感性が誘発されますから、敵の気配も背中で感じることが出来るようになるわけです。昔の時代劇で、よくありました、剣豪が突然、くせ者!と言って、槍で天井とかを刺すと忍者が隠れていたりして、相手を見ずに退治してしまうシーンですね、それが出来るようになるわけです。笑。

ひるがえって、現代は筋肉美が大好きな時代になっています。腹筋とかは割れてないといけないわけです。ですから、スポーツジムに行きましても、筋肉がつくように一生懸命、運動をして頑張るわけです。つまり、それはより負荷が大きくかかる動きを好んでしているわけです。しかしですね、いったん仕事の現場に行きまして、重い物を運ばないといけなかったりしたら?、スポーツジムのような動きをしていたら、とたんに疲れてしまうわけです。だって、重い荷物をより重く持つように練習しているわけですから、筋肉疲労が早いわけです。ところが、コツを知っているお年寄りたちは、涼しい顔して、ひょいひょいと運んでしまう。それは、要するに筋肉を使わないようにして労働をしているからです。

古来日本には、引退という概念がなかった、仕事を終えるときは死ぬとき、と言うわけです。飛脚の人は、長距離走っあとでも、また次の日も走ることが出来ます。伝統芸能も引退がありません、日舞でも長唄でも、すべて老境という域に入ることができます。武術もそうですね、それでも引退が、早い武術もありますよ?というのなら、それらはもうすでにスポーツになってしまっているのかもしれません。武術家の黒田鉄山さんに至っては、「力のある無い、身体の硬い柔らかい、老若男女、それらにおいて差がでるようなものは武術ではない。」とまで言っておられます。この言葉は、凄みがありますね。じゃあ、何を稽古して、どう鍛えるのか?現代人にはなかなか理解できなくなるわけです。

これらのことは、すべて筋肉を使わないから出来ることなのです。じゃあ、どうしたら筋肉を使わないように出来るのか?それは、筋肉を動かすために多用されるもの、そうそれは意志、つまり精神活動を制限するわけです。おおよそ、すべての昔の人が、たどり着く言葉が、「無」であったり、「無心」であったりするのは、こうしたカラクリが、あるからなのかも知れませんね?

そして、筋肉による身体観をとりやめ、精神活動から身体活動へ移行したとき、身体感覚から感性が芽生え、この感性を豊かにすることが、芸能であり、武術であり、人生だったわけです。

そうしますとですね、ここでまで書いてきたことは、すべて順番が逆になります。コツを掴むというのは、結果論であり、客観的であると思われます。まず、最初に取り組んだのは、感受性を豊かにすることだと思います。そのために、感受性が誘導される身体感覚を優先するわけです。そうすると、なぜか身体を動かすことが難しくなったわけです。それに、意志に沿って動くことが出来ませんので、制御も難しくなるわけです。それでも、どうしても動かないといけない、そのために生み出されたものが型であり、その型を用いることで、身体感覚を失わずにかろうじて、動くことに成功したのかもしれません。ここまでが、コツを掴むだと思います。

そして、たぶん、型が生み出される、感性と身体感覚の鍛錬の過程のなかで、偶然にして、また幸運にも、ぶち当たるであろう「無」の領域は、先程、書いた「無」とは、全くの別物であり、次元の違う、また型とも違う、型を使わずに動くこと、つまり表現することができる、いや型を無視してまでも躍動しうるもの。そう、これが型破りということになるのかもしれない。これを、先人たちが、驚き、なんとか言葉にしたものが、「空」であり、「無」の本質であると思われます。奇跡的にもこの領域の存在を知った、日本人の先達者たちは、そこを不可侵の領域として大切にしたわけです。秘すれば花なのです。そして、秘すれば伝はるといふわけです。道とは、たぶんこの「空」であり「無」への領域への到達を目指しているものと思われます。

もちろん、これらは推測の段階であり、また探求されるべき世界なのだと思っています。僕もいつしか、この「無」という領域のほんの片隅でもせめて、かすめてみてみたいものだと思っている次第です。

※注意:決して、スピリチュアル系の話をしているのでは、ありません!あくまでもこれは、実践論であり技術論です。

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