日本文化につて

日本文化は、海外の文化と比べてかなり特異性があると思います。世界の極東にあり、日出る国と言われ、縄文時代が一万年もつづき、しかも平和であったということ。ヨーロッパから始まった産業革命の影響を最後まで受けずに江戸時代を過ごせたこと。数えたらきりがない。そういうことは、どの国にも言えることなのかもしれませんが、それにしても面白いことがいっぱいあります。鋸は、日本だけが引いて切ります。神社に行けば、左手から洗うように、左が優位にあります。世界的に、右のこと(right)を正しいという意味を持たせていますが、日本では、左様です。と左が正しいのです。

こうしたことは、どうして起きたのかを考えますと、どうも理屈ではないようです。理論よりも優先されたものがあるわけです。それを知らないと、日本文化につて考えるときに、見誤るわけです。これは、こうこうこういう理由で、こうなったのだとか、そいういう事を考えたらいけないのです。じゃあ、何なのか?と考えれば、それはたぶん、日本の場合、身体感覚なのだと思います。左という感覚と、右の感覚をくらべて、左の感覚が重要だと考えたのかもしれません。それは、そのまま引く文化にもつながって行きます。引いた方が、佳いと感じたわけです。こうした感覚を重視し、しかもその感覚は、静止していることを前提とした感覚ではなく、運動つまりは、労働している状態での感覚を前提としています。ここは、少し難解なところでもあるのですが、例えば、幸福といえば、ある状態のことを指しますが、幸せ(仕合わせ)は、しめしあわせが良かったという、時間の流れの中での感覚表現になるわけです。つまり仕合わせは日本語ですが、幸福は、外国語を翻訳したものだということが分かるわけです。時は常に川の水のように流れ、形ある物は、つねに姿を変えて、この世にとどまるものは、何もないという。こうした圧倒的にな無常観も、理屈では無く感覚として、落とし込んで行くところに日本文化の深さがあるわけです。

現代は、科学を信仰しているといわれるほど、科学だけを信じていますが、科学は、理論と可視化の世界です。いろんなものを可視化して、単純化して効率化を図るわけです。それは、それでとても良いのかもしれませんが、最近では科学の立場が優位にありますので、可視化出来ないものは、無視し無かったことにするということが始まりました。放射能とかもそうですが、眼に見えないので、数値化しなければ、健康との因果関係はありませんと言い切れるわけです。

もちろん、日々、見えないものをどう可視化しようかとすごい勢いで進歩していることは、知っています。ただ、現状では、見えたものだけを、つなげて満足してしまう傾向があると思うのです。ここが、文化を語るときにとても大切なポイントだと思うのです。

例えば、着物を着るという文化があります。経済的に考えれば、売上は、ピーク時の六分の一まで減少しています。このままでは、着物産業が衰退していますということで、経産省がいろいろと考えるわけです。そうでなくても、着物に携わっている人なら、何かしらどうしようかと、考えるわけです。しかし、この時に、着物を「もの」として考えると、方向性が狂ってくると思うのです。商業として、考えれば、もっと気軽に着られるようなれば、良いと、帯をワンタッチにしたり、お端折りをはしょたり、もっとファッション性を上げればよいと、サイケな柄を使ったり、着こなしを洋服の様にしたり、着物風な洋服を考えたり、といろいろと考えるわけです。要素として、分けて考えれば、織りがり、染めがあり、紐があり、それぞれが生き残りをかけて、着物以外にも使うことが多くなり、気がつけば素材として、ばら売り状態になってしまい、ただの材料の一つとして残るわけです。

このように着物を「もの」として考えて行きますと、着物は残るが、文化は残らないということがおきてしまうと思います。生き残りを考えれば、止む得ないことなのかもしれません。ただ、文化というのは、着物という静止した物体のことではなく、着るという行為の中にあったり、着物をきて感じる感覚の中にある物だと思うのです。むしろ、そいういう事を残すことを考えることが、結果として、着物文化を守ることになるのではないかと、考えているわけです。

ですから、経産省よりも本当は文科省が、考えることなのかもしれませんが、現状では、学校の先生が、着物を着て壇上に上がることを許していないようですし、もちろん、日本文化につて積極的に教えることもありません。むしろ、英語教育がどんどん進んで、グローバル化が進む中で、着物文化は浸透しないで、どちらかと言えば、無くなって欲しいと考えていらっしゃるかもしれません。

文化は実際は、見えるものではありません。見えるものもありますが、むしろ見えないものの中にこそ、重要な文化があるわけで、それを無視して、日本文化を継承することは困難だと、考えるわけです。

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